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カブトボーグは現代に蘇った神話あるいはトイレットペーパーである

カブトボーグは現代に蘇った神話あるいはトイレットペーパーである
by:shino


わけのわかった人になろう

 人造昆虫カブトボーグVxVは、現代に蘇った神話あるいはトイレットペーパーである。

 と宣ったところでカブトボーグのファン諸兄(以下ボーガー諸兄)に於いては何をいまさらかと思われるかもしれない。
 そもそもカブトボーグのわけのわからないところやここがいい!というところはボーガー諸兄によってもっともっと熱意をもって語られてきたことと思う。
 だが私は今からこのアニメの不可思議では端折り切れない神話的要素、あるいは普遍的な要素をあえてさんざん例えられてきた神話とトイレットペーパーに例えて紐解きたいと思う。そうしたいから。
 なので、ぜひこれを機にカブトボーグに触れたことのない人もいったん離れてしまった人もまたぜひ視聴し、困惑していただきたい。そしてBlu-rayを買って一緒に訳の分かった人になろうね(⌒∇⌒)


ボーグとは何なのか

 人造昆虫カブトボーグVxVはアニメーション作品である。このアニメを見た人は大抵困惑する。第一期から最終回が始まり、第二期にして友人が死んで復活し、第三期にして友人の実家の中華料理屋を勝手に賭けて主人公が勝手にボーグバトルを始める。(ちなみにボーガーは全五十二話を全五十二期と呼称する事が多い)その様相はまるで精神疾患でいう統合失調症の症状であるところの言葉のサラダボウルを映像として見せられているようである。カブトボーグは公式によるとジャンル的にはギャグアニメとされている。ちなみにDVDのジャンルがキッズだったのはTSUTAYAのミスである。(お母さんには内緒だぞ!)
 しかし私はカブトボーグはそんなジャンル仕訳に収まるものではないと常々感じていた。カブトボーグは現代に蘇った神話あるいはトイレットペーパーなのだ。

神話とトイレットペーパーと娯楽


 我々は日常生活において神話とトイレットペーパーの関係についてはあまり関連性を覚えない。トイレでしりを拭くたびに、ジョーゼフ・キャンベルの書籍の事を思い浮かべて、自分が今日常からトイレという非日常の空間に入りトイレを出ることで何かしらを手に入れるなんて一々考えていては疲れてしまうからだ。人は忘れることで生きていける。しかし日常生活において、神話とトイレットペーパーは密接な関係がある。神話とトイレットペーパーは深いつながりで結ばれているのだ。
 たとえば神話は歴史の一地点では娯楽にもなったろう。
 人は何故神話を語り継いできたのか。それは人間に物語への欲求があるからだ。物語があるからこそ人は信仰ができるのだ。それは時に宗教と括られて呼ばれもする。
 そして人間は、生きる残るために膨大な労力をかけて、なくてはならないものを作り出してきた。トイレットペーパーもその1つで、人は何かを作るために、無数の物語を語り継いできたのだ。
 
 だが待ってほしい。神話は必要不可欠だったのはわかるが、トイレットペーパーは人類の歴史に必要不可欠になるのか? と仰る方もいるかもしれない。ではある日突然トイレットペーパーが消えたらどうなるだろうか。世界はパニックになるだろう。
 核戦争後の世界を描いた映画、マッドマックス怒りのデスロードでは劇中でトイレットペーパーではないが清潔で綺麗な飲み水を「ウォーターコーラ」としてある意味で神聖で貴重なものとして扱っていた。冒頭で土地の水を支配している支配者が水を求める貧しい人々にせき止めている水をほんの少しだけ与え、己に服従させようとさせるシーンは圧巻だ。そして支配者は、世界から消えてしまった音楽とか書籍とかそういったものを保管し、個人的に保護していた。支配者はかつての世界を知っていたからこそ娯楽が忘れられなかったのだ。神話も道具も信仰するために必要だ。そして信じられることは人間の大きな武器である。のみならず、神話は語って「楽しい」もの、つまり娯楽でもあった。カブトボーグというアニメは、ボーガーのみならず人類にとってはただの娯楽で済む話のようであり神話の1つでありそれもまた、トイレットペーパーのようにそう産まれるべくして産み出されたのだろう。

ゆきて帰りし物語とカブトボーグ

 現代に蘇った神話カブトボーグは、または人の一生にも似ている。神話に登場する英雄を語ったジョーゼフ・キャンベルは著書の中で英雄の冒険を線と円で書き表した。すなわちゆきて帰りし物語である。
 ゆきて帰りし物語とは、単純だが奥深い物語の構造だ。例えばカブトボーグ第7期の「涙の素パスタ!オーバー・ザ・レインボー」を例に例える。主人公の天野河リュウセイは学校という日常空間で過ごしている。彼がいる場所はまだ日常の世界である。だが、リュウセイは理科室に筆箱を忘れてしまう。そこで同級生の板里網子という女の子に鉛筆を貸してもらう。放課後に鉛筆を返し忘れたことに気づいたリュウセイは、自分の手で日常生活の場を離れ、板里網子の家へと向かうことで非日常の空間、戦いの場へと歩み出すことになる。非日常の空間で板里網子の貧しい暮らしを目撃したリュウセイは、ひょんなことから彼女と寿司食べ放題をかけたボーグバトルをすることになってしまう。その闘いに彼は躊躇するのだが、最終的には勝利することでまたひとつ成長し、現実世界、もといた日常の空間に成長という宝物を持って帰ってくる。
 はちゃめちゃな物語に見える様でも、主人公が日常から非日常に踏み出し、非日常の空間で試練を受け、何かを得て日常の空間に戻り、成長するという構造はカブトボーグでもしっかりと踏襲されていたのだ。

 だが、カブトボーグはそのような英雄譚のただ中にありながら、神話でありトイレットペーパーであり娯楽でありながら、なぜ一般的に広く受け入れられなかったのだろうか。

 日本文化は欧米諸国の文化に強く影響されてきた。だがカブトボーグのそれはそんな日本人にも受け入れられなかったというのだろうか。しかし、単純にヘンテコなうんこアニメなどと切り捨てる前に見る方向を変えてみたい。

ラテンアメリカ文学から紐解く



 カブトボーグはラテンアメリカ文学、またアフリカ文学のように我々に日本や欧米にはない全く異質な(ある意味では異常な)価値観をもたらしてくれた小説に近いのだ。カブトボーグの可笑しさや奇想天外さに隠れた人間が書いたとは思えない謎の脚本とその価値観はまさに他の、まったく違う国に初めて海外旅行に行ったようなそんな不可思議なギャップをもたらしてくれたのだとと考えるべきなのだ。投げっぱなしのエンドなどは、ゆきて帰りし物語で言えばあちら側にいきっぱななし状態だ。そして次回予告がなされ次回放送からは何事もなかったかのように新しい物語が始まるのは、シュールを通り越して魔術的リアリズム状態だ。だが不思議とそれらは最終的に奇跡的なバランスをもって収束し、オチをつけられ、物語として完結する。

 たとえば、ラテンアメリカ文学ブームの先駆け、ファン・ルルフォのペドロ・パラモの例を考えてみる。主人公は、ペドロ・パラモという名前しか知らない父親を捜して、コマラという街にたどりつく。だがその街では死者が喋る。というか死者ばかりである。そんな中で、主人公の父親ペドロ・パラモたちの過去、そして主人公の今、死者たちのさざめきが一緒くたになって次々と入れ替わりながら前衛的に物語が進行していく。最終的に物語が終息したのかもよくわからない。主人公は土の下だし、隣あたりで眠っている死者と平然と喋っている。全く異質な読書体験である。この小説を読んだとききっと感じる、文化レベルでのギャップというものを人はカブトボーグにも感じているのではないだろうか。脚本家によって繰り出される異質さを感じ、感銘を受けるも不気味だと感じるもその人次第だったのは、異文化に触れたギャップなのだろう。

松岡勝治とサンタ・ムエルテ

 余談だが、カブトボーグと死者について語るときには松岡勝治についても語らねばならない。メインレギュラーキャラにして第二期にして死んで生き返り、以降も何度も死んでは生き返る勝治のストーリー群を見ていると、私はメキシコに見られる死を崇拝する際に象徴されている女神、サンタ・ムエルテについて考える。サンタ・ムエルテはメキシコにて崇拝されている偶像であり、メキシコの人々の死生観に強く支えられている。メキシコの麻薬カルテルと政府の身の回りでの戦争を経てまったく我々とは違う死生観を持つメキシコの人たちは、死が持つ力を信じるようになっていった。それがアメリカのドラマにより視聴者の間で話題になり、大きく広まり信者の数も増やした。死は平等である。という思想は日本人には受け入れがたいものかもしれない。サンタ・ムエルテを広めたドラマのように、松岡勝治が死に打ち勝とうとしたり、死を受け入れようともがき苦しむ姿は地球に住む我々のDNAに張り付いた死という超感覚的な知覚とでも言えるような第六感に訴えかけてくるものがある。すなわち、死を崇拝するとまでいかなくとも、人の最終共通言語であるところの死が重要な役目を持っているという事。それがカブトボーグを理解する手伝いをまた一つ難解なものにしているのだ。かわいらしいアニメキャラクターで滅茶苦茶に見える脚本の中でなら、なおさら正解にたどり着きわけのわかった人になるのは難しいだろう。実際、松岡勝治が神になりひとつの内戦をしていた国に平和をもたらす回もある。脚本家陣の深い洞察力には脱帽させられる。


まとめ 

  以上の推察により、カブトボーグを見る際はこれが現代に蘇った神話であり、トイレットペーパーであるということを念頭にしてみると良いと言える。
 カブトボーグを視聴する際に意識する神話とは何か。我々がトイレットペーパーなどの物を作る際にその苦痛を和らげるために語りついてきた物語のことである。そしてカブトボーグは物語の中でも神話と化した娯楽である。神話とは語り継がれるものであり、語り継ぐものがいて、それを必要とするものがいる限り不滅のものである。

 これらの怪文書が、皆さんの人生を少し楽しくしたなら幸いである。

以上

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