モデルを辞めた 2

モデルを辞めた 1 から続く


晴れて事務所に所属することができたわけだが、先にモデルの仕事までの流れを簡単に説明したいと思う。

一般的に事務所所属モデルは、事務所を通じて仕事が入ってくる。形としてはいくつかあるが、最もメジャーな形は以下のものだ。まず、クライアントからもしくはクライアントを通じたキャスティング会社から事務所に仕事の連絡が来る。そこから事務所の中で候補者を何人かピックアップして、仕事日、オーディション日が稼働可能かどうか連絡が来る。稼働可能の場合、資料出しを行い、選考を通ったものだけがオーディションに行くことができる。対面のオーディションがなく、資料出しだけのものも多いため、この資料(コンポジットと呼ばれるもの)でいかにいいものを作れているかがとても重要だ。そのために作品どりや仕事を積み重ねて、自分にとってより良い資料を作っていくことが必要なのである。頑張ってるとされるモデルは特にここを頑張っていることが多い。あとはSNSとか。
話が少し逸れてしまったが、対面のオーディションに行って、ポラ写真を撮ったりウォーキングをしたりして合否がつき、そこで初めて仕事を獲得という形になる。結果として言うと、二年半で自分はこの形で仕事を一つも獲得することができなかった。
他にもダイレクトブッキングのような形で、モデルが直接指名されて事務所から連絡が来ることもある。だんだんと売れていくとこのような形で仕事がもらえるらしい。

と、この流れを説明した上で、初めてのオーディションはたしか3月半ばにあったと思う。onitsuka tigerのオーディションで、同じ事務所の先輩モデルたちに何人か会った記憶がある。あと、今思うとgendaiくんもその時にいた気がする。当時は全く知らなかったが、既にかなりブレイクしていて同じ事務所の子が教えてくれた。初めてと言うことで信じられないぐらい緊張して、なぜかリフティングしたりしたのに、それも信じられないぐらい下手で恥ずかしかった思い出しかない。今もいい思い出ですらない。そのオーディションは当然のように落ちたのだが、そこからは1ヶ月に1回か2ヶ月に1回ぐらいの頻度でオーディションがあった。資料出しはたくさんしていたもののあまりに資料が拙かったため、ほぼほぼ書類審査を通ることがなかったのだ。そのために上記の作品どりをした方がいいと言うことを知った自分は、ほぼ唯一の知り合いのモデルの方にフォトグラファーの方と繋げてもらって、新宿で初めての作品どりをした。たしか5月半ばだった。季節外れの暑い日で裸にセットアップという格好で今も当時も変わらないスタイリングだなと。ダイエットだと思って何も食べないで夕方まで撮影していたからフラフラで帰った。情けない。ただ出来上がりはお陰様でかっこよくできていて、社長にも評価してもらった。

それ以降も夏前にもう一つ作品どりをしたり、友人と作品どりをしたりしたが、今度はどちらも良い資料ではないと指摘いただいた。正直なところ、全くわからなかった。何が良くて何が違うのか。と同時にめちゃくちゃ悔しくてめちゃくちゃやる気を削がれた。子供の頃から、自分のやっていたことが実は意味なかったとか言われるのが心底嫌いで、小学生の頃にやっていた自重トレーニングのフォームが汚いから意味がないと父に言われた時にすごくふてくされたのを覚えている。

生ぬるい考えの自分は事務所に入れば当然のように仕事ができて、周りの人から憧れられるような日々になると勝手に思っていた。そして数ヶ月間結果が出ないのは自分のせいではないと思っていた。完全な他責思考だ。ダサい、とかしか言いようがない。それに拍車をかけるようにダメ出しをされたことで完全に逃げた。当時立ち上げていたサークル(Archives of College)の代表をしていたことや、サッカーのコーチとか他に逃げれるものなんていくらでもあって、いとも簡単に逃げた。そして、この逃げ癖は今も治ってはいない。

そうしてできない現実や結果が全く出ない現実から目を背けるように世界一周に行くことを決めた。7月末とかだったと思う。就活なんかでは「海外経験がなくて、社会に出る前に知っておきたかった」なんて言ってるけど、ほんとは逃げたかったことの方が大きかったのかもしれない。これはわからない、正直自分の中でも。わからない、ということにしたいのかもしれない、弱い自分を認めたくないのかもしれない。

それで翌年の2023年4月から3ヶ月半日本を離れること、モデルから離れることを勝手に心の中で決めて、その上で事務所に相談に行った。本当に寛大な社長はデメリットを伝えてくれながらも、温かく送り出してくれた。所属してたった半年のモデルが何を言っているんだという話ではあるが、そこまで客観視できていなかったからこそ踏み切れたのもあるだろう。あの時の決断に対しては一寸の後悔もないが、本当に周りの環境に恵まれていたんだと思う。

そこから4月までの約9ヶ月ぐらいの記憶が正直あまりない。多分努力は全くしていなかった。ただただ逃げていたんだと思う。たまにあるオーディションには行くものの、当然仕事にはつながらず、ウォーキングの練習は何度か事務所で見てもらったりしたもののまだまた甘すぎた。そして、仕事が取れなかった1番の本当の理由は「メンタルの弱さ」である。自分はメンタルが弱い。緊張した時とか、ここぞと言う場面でいつも結果が出せない。それはプロセスでの努力が足りないからでしょ、と言われたら、それはそう。でもプラスアルファで緊張にも弱い。高校まで10年間サッカーをしていた時も、なんなら試合とか全然好きじゃなかった。緊張するし、失敗するのが怖いから。そう、ずっと怖いものから逃げて、どこか自分を正当化して、恥ずかしい思いを少しでもしないように守って守って見せたいところだけ見せる、そんなダサい人間なのだ、自分は。

そんなこんなで一つも仕事が取れないまま世界一周へと旅だった。当時も事務所に所属できた一年前と同じようにワクワクに満ち溢れていた。そして主観としてもほんの少し、モデルという肩書きを捨てられるという気持ちもあったように思う。モデルと名乗るのがずっと恥ずかしかった。何も仕事とってないのにそれってモデルって言えないじゃんって思っていたし、自分が恥ずかしくて仕方なかった。事務所のコネでpradaとかsaint laurantのイベントに呼んでもらったりして、モデルっぽいことしたりしていたが、あれも全部仕事ではないしなーと思ったり。体裁上インスタにあげたりはしていたものの、モデルっぽいことしてるのに結果出してない自分が嫌すぎてSNSを頑張ることすらしてなかった。

当時を振り返ってというか、今もだけれど、自分は違う存在でありたかったのだと思う。早稲田大学通って、サークルも立ち上げて、そんでモデルもやってるなんてすごいねって。そうやって言われたかったのだ。完璧な人間にずっとなりたかった。小さい頃からの憧れとして勉強もできてスポーツもできて、かっこいい人になる、みたいなのがあってその延長線上で生きてきた。承認欲求の塊なんてもんじゃない、承認欲求でしか自分が形成されてないような人間なのだ。

そんなダサい承認欲求とプライドで構成される20歳として2023年4月7日から約3ヶ月半の長旅へと出発した。

次編へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?