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老荘思想から紐解く、ギャルと恐竜を現代社会のバイブルとすべき理由

※講談社さん、コテンラジオのヤンヤンさんに引用の許可を頂いております

今回は最近ハマった漫画「ギャルと恐竜」(公式ページをセキュアにして欲しい・・・)と、個人的に勉強している中国思想について書きたいと思います。(本業と全く関係なく、サッカー好きの方はすみません)

シンプルに結論から言うと、ギャルと恐竜で描かれてるスタンスって凄く老荘思想に近くて、現代の日本人に必要なマインドじゃないかな!ということです。

(トミムラコタ, 2019, 「ギャルと恐竜」, 1巻, 139ページ)

きっかけ:リベラルアーツに関する違和感

このnoteを書こうと思ったきっかけは、最近の「リベラルアーツ、大事だよね」みたいな風潮に違和感を感じたからです。

本屋に行けば「ビジネスに役立つ◯◯」とか「一流ビジネスマンが知っている◯◯の歴史」などが平積みされていますが、なんというかちょっと違う感を覚えます。

この違和感を見事に言語化してくれたのが、コテンラジオというラジオ番組です。歴史のDBを作るという壮大なプロジェクトを推進する株式会社コテンの代表深井さんとヤンヤンさんをスピーカーとし、株式会社BOOKの樋口さんがファシリテーターとして歴史の面白さや偉人の人生を通じて人類をより良く理解するという番組です。(特にPRではありません!)

深井さん「リベラルアーツをスキルとして捉えるのは本末転倒だよね
ヤンヤンさん「会話の時に自分が(物事を)良く知ってる、できてる人間だと見せる為にうまい話し方をする為のリベラルアーツというね
確かに・・・!

これはビジネスで成功するというベクトルがまるで社会の唯一の価値基準のように語られ、リベラルアーツをその道具のように扱う態度に違和感を覚えたからです。

同時に深井さんやヤンヤンさん、僕もその違和感を感じていたということは、価値観が多様化している中で仕事での成功のみにベクトルを絞ってしまうと個々人が窮屈に感じるよな、と思ったからですね。

これ以降の章で、現代という時代の背景と、なぜギャルと恐竜は多くの人を魅了するのか考察していきたいと思います。あまり漫画と関係なさそうなトピックですが、ギャルと恐竜は必ず出てきます。

近代国家の形成と儒教的思想

中世や近代を経て、封建領土から国家という枠組みが作られ、司法・立法・行政が分権し国家が組織化してきました。
そしてその組織化の中で、ある程度人間がひとまとまりとして「◯◯人」みたいな枠組みの中で一元化されてきたのが20世紀でした。

国家はこの過程でハードパワー、つまり特定の領土内における軍事力・経済力を国家が独占し、強制力によって国民を纏め上げて行く力を発展させました。ギデンズという社会学者が言及しているのですが、国家は軍事力という物理的な力を独占しつつも、その力を警察や法律など文明的な形で「監視」することで成立しているのが近代国家の価値観と言えます。

例えば日本は一億総中流社会となり、勤勉で成長志向というある種一元化された価値観の元に発展してきた側面があると思います。ここに至るまでジャンプが相当あるのですが、本題とずれるので省略します。

この時に重宝されるのが、儒教的な思想です。
儒教的思想とは何かと言われると非常に長くなるので要素のみ展開します:
・正名:役職と役割(名実)をきちんと対応させること。父は父の、子は子のように振る舞う。同様に君は君の、臣は臣らしく振る舞うこと。
・礼:規範や慣例に乗っ取った作法を行うこと。
・仁:兄弟親子や上司部下に思いやりを持って接すること。
挙げればキリがないのですが、当時の中国社会では「論語」や「荀子」などのテキストが溢れていて、秩序を守って学問を頑張って出世する!という思想がスタンダードとして形成されていました。

この時代にギャルがいたら結構いきぐるしいと思います。「やばい」とか曖昧なことを言うと秩序が乱れるので禁止されてたと思います。マジやばい。

なんとなく少し前の日本の雰囲気と重なりますよね。良い学校や大学に行き、良い企業に就職して、先輩や上司を立ててハードワークし、終身雇用で皆が秩序を守った社会生活を送る。女性は女性らしく、男性は男性らしく。
儒家の思想は、一直線に頑張ることによって救われる単一な価値観の元に形成された社会にとても合致したものと言えます。

儒教的思想は国家がハードパワーを形成する過程において、国民を成長思考にする為のソフトウェアとして非常に良く機能するので、近代において日本という国家が急激に国力を蓄えられた背景に少なからず影響していると感じます。

現代の多様化した価値観

深井さんもラジオで言及する通り我々の2-3世代上(おじいちゃんとかおばあちゃん)になると個人の「幸せになる方法」が社会によって確立されていて、個人はそのレールに良くも悪くも乗って行けば良かった社会と言えます。

現代はグローバル化が進み、情報の流動性が高く国家は枠組みとしては存在し続けるものの、個人がどう生きるかという選択肢が広がった世の中になったと言えると思います。一元化から多様性の時代に突入していると。

ジョセフ・ナイという社会学者が、この社会的枠組みの変遷を上記のハードパワーに対してソフトパワーという言葉で表現しています。詳細はまた長くなるので省きますが、「コンテンツや文化的なものの魅力で人々の意識を変える力」のことを指します。

これは例えば韓国ドラマやアイドルが日本で流行っているから韓国に親近感を持つ人が多い、などの例が挙げられます。
この状態がエクストリーム化するとアラブの春などの革命が起こります。

人々が国家や社会の枠組みを超えて、自分が共感できるコンテンツに容易にアクセスできる環境になったことで、国家や会社の強制力が弱まっていきます。儒教的あるいは封建的支配が弱体化し、個人が自分らしくどう生きるかという時代に突入していきます。

古代中国は儒教を国教とする国が殆どでしたが、それに対応する思想として出てきたのが道教ですね。

道教の価値観

儒教や道教の源流はどちらも紀元前6世紀にあり、春秋戦国時代に各国に伝わり、その後様々な形で体系化されてきました。

簡単に儒教との対応関係を示すとすれば、「儒教が定めた道徳的な秩序とかわざとらしいよね。自然体でマイウェイ(道)を見つければ良くない?」と言ったところでしょうか。

現代は以前より個人の生き方が多様化しており、自分が好きなものをインプットして好きなようにアウトプットする。自分なりの道(タオ)を見つけて邁進できる社会になってきたと言えます。

良い大学に言って良い会社に入らなくても、好きなことをやってYouTuberになっても良し、フリーランスとして生きるのも良し。そもそも仕事は時間に自由のきくものにして、家庭や趣味に邁進しても良し。
これは儒教的な社会環境から、道教っぽい価値観が合う時代にシフトしてきたと言えるのではないでしょうか。

※本来の厳密な道教とは少々ずれる部分もあるのですが、省略して進めます

ギャルと恐竜と老荘思想

やっとここからギャルと恐竜に話を突っ込みます。
ギャルと恐竜はヤングマガジン連載、講談社出版、原作森もり子さん、作画トミムラコタさんによる、ジュラ紀から平成の間に生まれた人必読の漫画です。

簡単な概要は、ギャルの楓が酔った勢いで恐竜を家に連れて帰ってきてしまい、そのままルームシェアが始まるというものです。

ここまで割と冷静なトーンで書いてきたのですが、結構衝撃的な展開ですよね。これ1巻の一番最初の2ページなんです。

これ、普通の人焦ると思うんですよね。酔ってたとはいえ朝起きたら家に恐竜いるので、映画Hangoverを彷彿とさせる酔った勢いのエクストリームケースですよ。

でも楓と恐竜はこの次の2ページでこの状態を受け入れます。

(トミムラコタ, 2019, 「ギャルと恐竜」, 1巻, 3-6ページ)

この4ページはギャルと恐竜という作品のスタンスがかなり凝縮されています。この全てを受け入れ、かつあるがままの自分でいるスタンス!ひとまず悩まずに、自然な状態をお互い受け入れるスピード感が気持ち良いです。

ギャルと恐竜が示した無為自然

ここで楓と恐竜が示したスタンスとしては道教の流れを組む老荘思想に近いと感じました。

老子の提唱した無為自然というスタンスがあります。自ら生きようとするのではなく、天地のように自然体でいることをおすすめしてます。

そこにあるものを無理やり社会の既定概念に当てはめなくても、そのままを受け入れていくスタンスを持つことで、何かの概念にとらわれることの無い自分なりの幸せ(道)を手にできるのではないかということです。

「これはこうあるべき」とか「あなたはこうした方が良い」とか、社会はたまに色々なお節介を押し付けてきます。しかし、朝起きて恐竜がいても、「良くね?まあバイト行くか」くらいの自然なスタンスを持つことで結構生きることが楽になると思います。

むしろ寝るときに朝起きたら恐竜いるかも?と思って寝ると良いと思います。酔ったら恐竜いないか探してみましょう。高確率で朝起きても恐竜はいないので、そのときは「ま、いっか」となります。仕事とか学校は小さなことです。

ギャルと恐竜と万物斉同

荘子は一言で言うとめっちゃ相対化する人です。絶対的なものなんて何もないことを強く主張します。

荘子が提唱した万物斉同という概念があるのですが、簡単に言うと「物事は相対的なものだから、善悪や是非の絶対的な価値基準って存在しないよな」というもので、もっと言うと「超マクロな視点で見ると、俺もお前も何も無い混沌(カオス)から生まれた存在だから同じだよな」というスタンスを取っています。

このマクロな視点で見ることを天倪(てんげい)と呼んでいます。

(トミムラコタ, 2019, 「ギャルと恐竜」, 1巻, 79-80ページ)

ここでは、「人間の楓」と「恐竜」くらいマクロで存在として離れていると区別つかないので、お互い映画内のキャラと一緒じゃんとツッコミを入れてます。

ただ楓も恐竜も、同族としては映画内のキャラとかなり違うので「いやさすがに全然違うだろ」となります。

ここでもし儒学者が登場したら、正名の大切さを唱えてギャルはギャルらしく、恐竜は恐竜らしく振舞うべきですが、それを絶対的な価値観にしちゃうとお互いだいぶ無理しないといけないです。この恐竜が野生丸出しにするの無理ありますよね。

なので荘子は「いや、マクロ視点で見たらギャルも恐竜も変わらないし、それを受け入れることが道(タオ)でしょ」と言います。

マクロで見るとかなり遠い二人ですが、ギャルと恐竜が同質の存在として一緒に映画を観て楽しく過ごすこの日常こそが道なんですね。

個々人の生き方が多様化している中で、LGBTQや人種差別撤廃運動などが盛んになっています。

これはマクロで見ると人種や性的嗜好に関わらず同じ人間に違いはないし、受容していった方が社会が豊かになるよね、という活動の現れだと思います。楓も恐竜も、万人に同じ対応を取る安定感がありますね。

また、荘子は「カオスをカオスとして体験する」ことの重要性も説いています。(前田利鎌, 1990, 「臨済・荘子」, 161ページ)

(トミムラコタ, 2019, 「ギャルと恐竜」, 1巻, 90ページ)

バイト先に友達と元カレと恐竜がやってきて、みんなで宅飲みしようというノリになるのですが、カオスを面白いとポジティブに置き換えて、皆で飲むことになります。

カオスをカオスのまま体験して楽しむマインドがあると、人生でまあまあの頻度で起こるカオスな状況にも余裕で対応できますね。

ギャルと恐竜の上善水の如し

僕がこのマンガを好きな理由の一つに、登場人物が皆いいやつというところが挙げられます。

ここは是非読んで欲しいのでページ載せるの控えますが、3巻で楓の住んでるアパートの大家さんのところに恐竜がやって来ます。そこで大家さんに良くしてもらい、恐竜がお返しをするというシンプルな話があるのですが、なんというか泣けるのです。

登場人物全員に一貫しているのは、知り合いに喜んでもらおうとするけれど、わざとらしくないところです。(個人的には、恐竜がおみくじ引いた時の山田の対応が好きです)

一方、儒教の「礼」は作法なので、状況や相手に関わらず同じことをするのが良いとされています。

以前女性から「毎年、私の誕生日に友達がサプライズでレストラン取って、コースディナーとプレゼント用意してくれるんだけど、テンプレ化してて全然サプライズじゃないんだよね」という悩みを相談されたことがあります。
その後友達のSNSにアップされたベストショットに「サプライズありがとう」とコメントするところまでお作法として確立しているらしいです。

これはこれで儒教の「礼」や「仁」、そしてサプライズされている自分を演じきる「正名」を体現しまくっててすごいなと思います。

対して老子は上善水の如しと言っています。つまり水のように柔軟に形を変え、また大げさに振る舞うことなく低いところに流れていくことができるので、水を見習うと良いよとおすすめしています。

SNSに写真が上がらなくても、麻布十番のイタリアンでコース料理を注文しなくても、お互いが柔軟な距離感で思い思いに誕生日を祝えば良いのではないでしょうか。(ちなみに恐竜も誕生日があり、皆がとても良く上善水の如しを体現してるので読んでみて下さい)

ギャルと恐竜のマインドが伝播

先パイというキャラがいるのですが、ギャル(楓)と同じコンビニでバイトしています。先パイはあまり深掘りされてないですが、育ちの良い大学生で常識のある両親の元に育ちます。

おそらく、先パイはたくさん勉強して大学に入り、アルバイトをしながら就活を確りやっていくタイプの頑張り屋さんです。ちょっと儒教的な志向性を持っている人ですね。

先パイは最初、人生において余り関わったことのないギャルの楓に対して距離感がつかめず、話し出すのに躊躇してしまいます。自分の人生で培ってきたヒエラルキー構造の外側に存在する楓は、ちょっと異質な存在に映るのではないでしょうか。

しかし、徐々に楓のマインドが伝播して、先パイも無為自然なマインドになっていきます。楓が旅行の帰りに違う恐竜を連れて帰って来てしまった時の反応を見ると、以前より肩の力が抜けてて生きるのが楽しそうだなと思っています。

(トミムラコタ, 2020, 「ギャルと恐竜」, 3巻, 145-146ページ)

まとめ

中々の大作になってしまいました。

ギャルと恐竜は「努力をして仕事で成功しなければならない」という前近代的な時代から、個々の価値観を先鋭化させていく時代へ変遷する過程にある現代において、バイブルとなりうる作品だと思います。

単線社会・複線社会といった言葉で表現されますが、「仕事での成功が全て」という単線型の価値観から、我々の世代は個人が好きなことを仕事にできる、あるいは仕事以外に生きがいを見出す複線型の価値観にシフトしています。

昨今様々な制度がリモートワークや福利厚生、フリーランスや副業に対して整備されてきているのはそういった社会の変遷が発現しているのだと思います。

これは冒頭に触れた儒教的価値観から道教的価値観へ、ハードパワーからソフトパワーにシフトしていることもあると思います。若干儒教批判のように聴こえてしまうかもしれませんが、時代に合わせて傾聴しすぎずバランスが大事だと思っています。

悪い癖でなんか色々小難しいことを書いてしまいましたが、一つだけメッセージを絞るならギャルと恐竜を皆さんに全力でおすすめしたいです!
特に人間関係に疲れていたり、途方もない気持ちになっている方は読むとマインドが変わって良いと思います!!
現代という時代に持つべきスタンスやヒントを教えてくれると思います。

ちなみに4月4日からアニメ+実写が同時放送されるので、そちらもチェックしてみて下さい!

コテンラジオ一度是非聴いてみて下さい!
歴史に興味の無い方でも、背景知識から知ることができておすすめです!

追記:趣味で歴史や思想を勉強しているだけなので原文の厳密な解釈とずれると思いますが、致命的なものはご指摘下さい笑

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