ぼっち・ざ・ろっく!という文化

ぼっち・ざ・ろっく!好きですか?

実は私は、妖怪ウォッチ界隈に来る前は、けいおん!界隈に居ました。
なのできららでバンドものというと、それだけで「おお?」と思わせられるものがあるわけです。

だいたいこういう流行作品に入っていく時って、最初に見るのは原作とかアニメじゃなくて、MAD動画とか名場面集みたいなものの類であることが多い。ぼざろも確かいちばん最初に見たのは、ぼっちちゃんの面白シーンまとめみたいな動画でした。

なんとなく直観的に、この作品は何かあるな、と感じました。けいおん以降のバンドものって、無理に「青春っぽさ」を強調するような作風が多い感じがしてたので、そういう作り込まれた舞台性みたいなものを取っ払った所から始まる「ぼっち・ざ・ろっく」という作品は、何かを受け手に感じさせ、没入させるものがあった。

この作品は、割とぼっちちゃんの奇行とか作劇上の扱われ方がぶっ飛んでいる事が話題にされやすいですが、実はそれと同じくらい、「受け手の感性」を最大限尊重したコンテンツの作り方をしてるんだなと感じる所があります。「このキャラクターだったらこういう事をさせるのがいいだろうな」というのを外さない。もしも合わない事をする時にも、「どうした○○」というツッコミが来るのを分かってやってるという感じがする。そこらへん含めて、読み手が作品やキャラクターの関係性・世界観に「参加」している感覚が強化される。VTuberの配信で自分のスパチャが読み上げられるのとかと比べると、その「参加」している感覚は見えにくいけど、でも他人の目からは見えないからこそ、「ぼざろってこうなんだよね」という優越感や一体感のようなものを抱かせる力がある。そんな感じがします。

もちろん、マーケティング戦略のような形で、そういう作り手とファンの関係構築を「狙う」ことはできるのかもしれないけど、ぼざろは作り手がキャラクターとか世界観のようなものに恐ろしいほどリアリティを与えたからこそ、それが空回りしてないんだと思う。そしてそのリアリティこそが「中身」なんだと。

「中身」という言葉、よく批評で「作品に中身がない」っていう風に使われたりしますよね。けいおんもよく言われてたし、ぼっち・ざ・ろっくもある層から言われていた。(けいおんの時ほどその手の批評は話題にならなかったですが)
それで、「中身のある作品」の例について、彼らの意見を聞いてみると、大体テーマが重厚であるとか、シナリオの起承転結がしっかりしてるとか、そういうものであることが多い。でも実はそれって「中身」じゃなくて「骨組み」とか「土台」の話なんです。

「土台」がしっかりしてなければいい作品は作れないけど、でも何を「土台」して世界観を構築するかは、その作品や、もしくは時代によって変わる。
いや、むしろ作品を通じて「何が我々の土台であるのか」という共通認識を形成する側面がある。

「ブリジーアゲイン」も、「プレイヤーがバスターズをプレイする経験」というのを土台にして作ったお話ですが、あの作品っておそらくゲームをプレイしたことのない人間からしたら、アラメルの心情とか、ふぶきちゃんが物理型に目覚めたことの意味って、理解できないはずなんです。

そういうのを抜きにして、なぜか「全人類考えるべき土台となるテーマ」のようなものが存在する、と考えてしまう習慣こそが、実は最も批評されるべき事柄なのかもしれない。

そこで思い出すわけです、ぼざろがリスペクトしてカバーした、「転がる岩、君に朝が降る」のあの歌詞を。

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