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新潟親鸞学会2019

2019/05/30

令和の一発目の新潟親鸞学会大会が、寺泊夏戸の真宗佛光寺派本光寺様にて開催された。

今年は佛光寺派の担当ということで規模間にいささかの不安があったが、なんとか大会としての形になったのは運営スタッフとして安心した。

今回のnoteにおける主題を言えば、、

竹村牧男先生の講演会が実に素晴らしかった!!!!

これに尽きます。

ご自身が東洋大学学長先生という立場でいらっしゃったので「井上円了の仏教観」という講題で講演いただいたのだが、、

井上円了が、お寺出身であったことや、哲学館が僧侶の教育機関としての性質を帯びていたことや、なんて知らなかった。。

ただの妖怪ウォッチャーではありませんでした←

そして、井上円了の批判的演説の内容が、なかなか身につまされ、刺さる。

世間、出世間の両全を期するは、これまた肝要なり。仏教の弊は世の無常を説きて、なるべく人をして厭世的ならしむるにあり。……これ畢境、従来の仏教家が出世間的出離解脱の一道を説きて、世間道を説かざりしが故に、ついに世人をして仏教を誤解せしむるに至りしなり。よって、今日以後は世間道を表にし、出世間道を裏にし、二者の両全を本として仏教の弘通に力をつくさざるべからず。
「内地雑居に対する教育家、宗教家および実業家の覚悟」『甫水論集』(第25巻『選集』100頁)

[意訳]従来の仏教家が、浄土往生を説くことに固執して、世間の問題から目をそらしているため、世の人びとが誤解している。世間・出世間の両輪によって仏教の興隆に尽くすべきである。

あらあらそういう旨を述べている。

しっかし、この『甫水論集』は明治34年刊行らしい。

だとすれば、おおよそ120年前に、こういう問題定期がなされていたとは。
逆に考えれば、近代における井上円了の問いに対して、その回答を引き延ばししてしまった結果が今般の仏教界における現状を引き起こしているのだろう、と考えられる。

また、同じ『甫水論集』における別稿のなかで日蓮宗のアプローチを以下のように評価している。

余案ずるに、日蓮宗の長所は、現世を本とし世間を目的とするにあり。……今後の仏教は世間門を先として出世間門を後にし、俗諦門を表にして真諦門を裏にせざるべからず。しからずんば、僧侶は世間の廃物視せられ、寺院は無用視せらるるに至るは必然の勢いなり。
「将来の仏教につきて日蓮宗諸師に望む」『甫水論集』(第25巻『選集』100頁)

[意訳]私が思うに、日蓮宗は現世を基盤にし世間を救済の現場として捉えていてすばらしい。これからの仏教は、日蓮宗のアプローチに倣って、世間を先にし出世間を後にするべきである。そうでなければ、世間の関心を失われ、寺院は無用視されてくるのは当然のことであろう。

そのようにして日蓮宗の肩を持ったと思ったら、別の著作のなかで

しかれども余の宗教的信仰は依然として真宗を奉じ、宗旨を一貫して替えることなし。いかに公平に諸宗教諸宗派を審判してみても、信仰の一段に至りては、真宗の外にいまだ余が意に適するものを発見せず。これ一〇歳以前家庭において受けたる教育の仏縁が、内より自発せしによるならんか。ああ快哉南無阿弥陀仏。
「付録 第一編 信仰告白に関して来歴の一端を学ぶ」『活仏教』(第4巻『選集』496頁)

[意訳]ツンデレかよ

まとめに代えて

今回の講演会を受け、この令和時代にこそ仏教の世間に対するアプローチを考え、また実現されなければならない。そう感得させられました。

最初はFacebookにリンク貼ってシェアしようと思ったんだけど、ちょっとダメかもしれないから、大人しくnoteに投稿しる(´;ω;`)

最後に

宿寺である本光寺様に感謝いたします。合掌

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