【 グレーの配慮 】

グレーの配慮とは”発達グレー”とかいう医師の診断有無ありきで判断してしまう立ち位置の話ではなく,「求める配慮」を100% or 0%とはっきりさせないという意味を指している。
そしてあくまで高IQの話にはなってしまう。

大前提,優先されるのは人命や心で,心を壊したり自死を選ばせる事だけは徹底的に避ける。これが最優先事項であるのは大前提の話。


今の風潮は「ありのままに無理強いせず褒めて伸ばそう」だと思う。だから親は特性に配慮を求める事ができる。

でもそれには一定のリスクもあると思う。
繰り返しになるが、現代社会は高IQ発達民が生涯に渡り配慮を求め続けられる社会設計には到底及ばない定型専用社会である。そこしか生きる選択肢のない子供達の場合は特に,理不尽であっても社会に適応する能力を付けさせてやらねばならないと思う。

その中で,能力習得の為の指導に一貫性が必要な子供達にとって,年齢によってあった支援がなくなる事は大きな負担になりかねず,習得を妨げる可能性がある事、また低年齢期に配慮を貰い支援を受ける事によって訓練の伸びしろを奪う事にもなり兼ねない事、これらのリスクがあると思う。


例えば息子の場合,発達界隈で高名なオプトメトリストの元で検査を受けてビジョントレーニングも足繁く通った。
先生曰くは「この子にはLDはないが処理速度が本人比では凹なので書字や読書は負担で,負担をクリアするのに労力を使い100%の力が出せないから,学校にタブレット学習の配慮を求めて板書回避できるよう提言した方が良い」と仰った。最善はそうだろう、おそらく息子にとってもそれが楽に違いない。でも息子が望む中学受験にはそんな配慮はないし,私立小においては無理だったので現状を維持した形だ。


結果、息子は板書負担により傾聴に100%の力を出せてはいないが,20-30%の傾聴でほどほどに板書をしている。授業とは板書をする時間という状態だが,授業内容は理解しているので別に構わない。これはある意味適応と言えると思う。そして日々成長するのだから,配慮がなく当たり前にする事だという環境が、独自に楽な適応法の模索にも繋がるのだと思う。それが恐らく医師の言うところの「知能でカバーするから大丈夫」の所以なのだろうと思う。
但し前述の心の崩壊をまず避ける事は大前提であるのだけれど。


高IQの場合に限っては

診断が出た=では100%の配慮をしよう 

でなくても良い気がする。


「知能でカバーしていくから大丈夫」
「昔からこんな子供はいた、子供を障害者にするな」
「社会でやって行く為には頑張る事も必要」


よく批判として言われている医師や父親の上記の意見
感情的には疲れている私達だから「私達の困り感を理解してよ!」に反しているからとても反発する思いは痛い程解るのだけれど、上記文言は理論的には一理あると思っている。助けてくれよの感情は置いておいて。

定型社会に出るための訓練場が学校であるとしたらトライアンドエラーしながら、特性上難易度が高い事を”30-40%くらいのほどほど”で取り組む事を目的として訓練させる事も大切かなと思ったりもする。事前に先生に[注意はしても激怒はしないで欲しい旨をお願いをしておく]環境整備は必要としても。…バランスが難しいのだけれど。


診断=配慮 と直結するのは、どこかに諦めがある。それは受け入れとも呼ぶのかも知れない。でも高IQの伸びしろは,発達無自覚のまま成功をされている一部の高IQ発達民の先輩方が証明してくれている様にも思うから当然子供の心の様子を見ながらではあるが,諦めるにはまだ早い様に思う。

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