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喧伝会議賞

大学を優秀な成績でギリギリ卒業し、就職に際しては特に望みもなく、当時苦手にしていた牡蠣ご飯が振る舞われた某社のグループ面接も必死に我慢して受けてみたものの、11月までどこも内定ももらえずにいた。

12月に入っていただろうか、何気なく新聞に載っていたとある団体の募集広告に目が留まり、面接に行ったらずっと野球の話で盛り上がり(母校が強いだけで、俺は高校までしか野球はしていないけど)、なんと内定をいただいてしまった。

ところが経理や会計の仕事は、肌で直接触ったわけではないけれど、全く肌に合わず、正直途方に暮れていた。

かといって他にやりたい仕事もない。いきなり辞めるのも勇気もなく、毎日映画館下の喫茶店でカレーを食べて、寅さんとか古い映画を見て帰る日々が続いていた。

そんなある日、本屋に立ち寄ると『広告批評』という雑誌を見つけたのだった。
当時好きな芸能人が載っていたからかもしれないが、広告には全く興味がないのにその雑誌を買ってしまった。

その中に、いまコーヒーのジョージアやBOSS、エネゴリくんやこども店長などでおなじみのCMプランナー・コピーライターのインタビューが掲載されていた。言わなくても分かると思うけど。

まだ名前が売れ始めたばかりの頃だったと思うのだが、話が面白く、何より企画に迷ったときは某広告代理店の外の庭で考えるらしかった。

仕事中、晴れたベンチに座っている彼を見て、心底羨ましかった。

今となれば分かる、そりゃ分かる。
そんな甘い世界ではないことぐらいは。

ただ、未来を儚んでいた青年にはまぶしく見えた。
「これはいいな」

しばらく時間がたったある日「宣伝会議賞」を知った。
糸井重里氏も受賞している。
入賞すれば、俺にも未来が拓けるのではないか。

コピーの書き方など分からず、いまと違って郵送での申し込み。
半ば一生懸命、半ば適当に20個ぐらい書いて締め切りギリギリに封筒をポストに入れた。

これも今と違い、通過者発表号が少し違っていたと思うが、なんと私の名前があったのだ。

天にも昇る気持ちとはこのことだ。何も認められない俺が小学2年生の時のツーベースヒット以来、久しぶりに認められたのだ。

次号発売までの時間は、まさしく緊張の日々だった。
「もしかして……、もしかして……」
小林幸子の歌声が聞こえてきた

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てなわけで、印刷の都合上、次号の時点でもう受賞者は決まっていたんですよね。
ああ、友達に喧伝しちゃってたなぁ。

その後は最高で3次までいったのだが、最近は応募意欲もなくなってしまった。

ただ、宣伝会議賞は俺のような奴にとってはサッカーの天皇杯のような、弱小アマチュアクラブがプロのJ1に挑むことができる唯一の楽しみだった。

毎回受賞作を見てため息をついていた頃が懐かしい。

1次を通過しただけで「企業広告のコピーのご用命はいつでもこちらへどうぞ」とツイッターのプロフィール欄に書いていた知人は、元気でやっているだろうか。










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