見出し画像

「 だって手も繋いでくれなかったじゃん」

完璧に綺麗に巻いてきた長い髪が絡まるのを気に留めず、私は下北沢駅のエスカレーターを駆け上がっていた。時刻は19時43分。はやくはやく。走れば、もう一本前の電車に乗れる。はやく、もっとはやく。私は息を切らしながら、伝えていた時刻より6分だけ前倒しで待ち合わせ駅に着いた。人のまばらな改札前で彼の姿を見つける。6分ぶん、早く会えた。

「あんまりデートって感じの店じゃないんだけど、おいしいから」と言う彼のあとを着いていきながら、私はさして重要じゃない事ばかりをベラベラと話しては、急にそんな自分が恥ずかしくなって突然黙りこくったりしていた。明らかに気が動転していた。店についてからも私はそんな調子で、何を飲んだのかすら思い出せない。
私は、今日ここで、「あとで言おうと思っていたので聞かなかったことにしてほしいんですけど、好きです。」と耳元で囁いてから、メニューを広げ、「あ、これおいしそうだな〜、これ頼んでもいいですか?」と気丈に振る舞うはずだった。そう、そのはずだった。そう決めていたのだ。だって自分のことをそういう女だと思っていた。すっかり忘れていた、恋愛というものがこんなに自分を不安にさせるということを。

結論から言うと、私が彼に好きだと言えたのは、それから5時間経ったあとだった。

店を出て、タバコを吸うと、寒くてしょうがなかった。吸ってきな、吸ってきな〜とお店のおばさんが灰皿を出してくれながら、発泡スチロールのボックスに入った氷の中から牡蠣をいくつも掴んで、店内へ手際よく運んでいく。

寒い寒いと言いながら、タバコを吸い終わり、あったかいココアでも買おうと言って、セブンイレブンへ入る。ローソンにはおいしいココアがあるのにな、と思っていると彼が店員に「あったかいのありますか?ココアとか」と聞いてくれる。そうしたら若い店員は「あ〜ローソンならあるんすけどね〜」と答えて、私は堪えきれずに笑ってしまう。他社を勧めるコンビニ店員がいるか。ローソンのココア、おいしいですよね、と言いながら私はセブンのガトーショコラを買った。私はすっかりこの街が好きになっていた。

ぎこちない距離感で彼の家まで向かう。彼は少し得意げに、あるいは何か空白を埋めたいかのように、街のあちこちのバーだとか、ご飯屋さんの話をしてくれた。ここで、ここで生活しているのだ、彼は。私はその事実を知れるだけで胸がいっぱいになった。いつかこうやってひとつずつ連れてってくれるのかしら、あなたの街のあちこちに。そんなことを思っては、ひとつも口に出せずにいた。

本当にうちは汚いからね、と釘を刺されていた彼の家は、本当に汚かった。たくさんの楽譜と、本と、楽器と、お酒と、大量の服が山積みだった。私には大好物だ。隅から隅まで本棚を眺めて、とてもじゃないけど人を招き入れる気のない家具の配置に(だって机があるべきところにピアノがあるんだもん)、私は心を躍らせた。なんだこの家は。
椅子がないのでピアノ椅子に座る。私がユーミンが好きだというのを汲んでくれて、「伴奏弾くからさ、歌ってよ」と言う。崩れ落ちそうな本棚に囲まれながら、私たちは肩が触れるだけの距離で、80年代の歌を歌った。

歌を歌うこと以外は何を話すでもなく、時刻は24時を回っていた。
「めいちゃんはさ、今日は帰らないってことでいいの?」と彼が言いにくそうに言ったので、「え!?私、帰った方がいいですか!?」と私が大きな声を出す。「いやそういうことじゃないけど…」と彼がまごついて、私がぷいとそっぽを向く。ああ!なんて情けない大人たちなんだろう!ああ恥ずかしい。いつになったらもっとスマートな恋愛ができるようになるのだろう。いつまでも恋愛はひどく滑稽で、こんなふうな形で美しいものなのでしょうか。

私たちは恐る恐る相手の肌に手を伸ばして、ゆっくりゆっくり、今までの不安を口に出した。「言ってくれないと何もわからないよ。めいちゃん、だって外で手も繋いでくれなかったじゃん!」と言われ、私は即座に「それを言いたいのは私の方だよ!」と言って抱きしめた。
そして私たちは、明日起きたら代官山にランチに出かけようということ、来週も会おうということ、クリスマスや年末年始も一緒に過ごす時間を見つけようということなどをひとつずつ約束した。


好きだと言うのが怖かったんです。どこが好きなのかわからなかったんです。
あなたに私のどこかが好かれる自信はもっとなかったんです。
でも初めて会った日から、私はずっとあなたに言ってることは変わらない。
たくさん話を聞かせてください。話したいことも山積みです。一緒に音楽を聴きましょう。あなたの好きな音楽を少しずつ聞かせてね。また一緒にピアノ椅子に座りましょう。寂しかったら抱きしめてほしいです。悪い冗談を言っては困らせたいです。少しずつ、少しずつ、愛させてください。

荒井めい

変な家だから床にあらゆる文庫本が落ちてた

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?