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トタン製バラック暮らし!

 こんにちは、こんばんはA面です。
 今日はA面の幼少期のトタンバラック暮らしについて思い出したので描いていこうと思います。
 写真がないのが悔やまれます。

トタンバラックに住むまでの経緯

元陸軍憲兵の家が没落した

 時を遡ること、太平洋戦争が始まった頃。その頃の我が家はまだバラックじゃなかった。それこそ、家に女中さんがいるようなお家だったのだ。戦時中までは。世代で言うと曽祖父の時代である。しかし嫁いできた女(曽祖母)がとんでもない地雷系で、家の金を使い込むわ、軒下にできた燕の巣を焼き払うわで家は没落の一途を辿った。結局、曽祖父は内縁の妻を作って家を出て行き、残るは地雷女とその子どもたちとなった。曽祖父が出て行ったところで地雷女はさして変わらず、散々に浪費を重ねて、土地を売りまくり、金を湯水のごとく使ったそうな。これが、バラックへの第一歩であった。

次男が実家を抵当に入れた

 二歩目は地雷女の子供の代である。地雷女の子供は何人かいたが、その次男が自分の店を構えるために、実家を抵当に入れたのだ。しかし、その時にすでに次男は結婚して家を出ており、長男家が実家を継いでいた。つまり、次男は勝手に他人の家を抵当に入れたのだ。長男家としてはたまったものではない。死に物狂いで働き、さらには地雷婆ちゃんの面倒を見つつ、次男が踏み倒した借金を返済したのであった。

繰り返す増改築の末、バラック小屋が誕生する

 そうしてことの発端である地雷女が亡くなった頃、A面の親父が仕事をやめ、実家に戻ると言い始めた。当時の親父は沖縄に住んでいたため、急遽地雷女の住んでいた部屋をリノベーションして、なんとか家族3人が住めるようにした。そうして出来上がったのがフルトタンに覆われたバラックである。
 フルトタンというとガンダムとかの仲間のように聞こえるかもしれないが、なんのことはない、屋根も壁もトタンの家が出来上がっただけである。リノベーションした場所は、母屋にくっつく形で増築していた場所だったため、その空間だけがトタン製のバラックとなった。今ならば多少金をかければガルバリウム鋼板なんてものもあるが、そんなものはない時代である。

いざトタンバラック暮らし

 匠の手によって出来上がったトタンバラックは以下の通りである。8畳の居住スペースに窓が二つ。2畳の押し入れと4畳の台所。台所の横には勝手口がある。風呂トイレは母屋に繋がる扉を超えて、わざわざそっちに行かないとこなせない。

トタンバラックの居住性

 ご存知の方は多いだろうが、普通の住宅は木造にしろパネル製にしろ、基本的に外壁と内壁の間に断熱材を入れることが多い。が、このバラックにそんな高尚なものはない。トタンとベニヤが外壁と内壁なのである。そこら辺の隙間にテレホンカードでも差し込もうものなら、カンカンとベニヤとぶつかる音が聞こえてくるのだ。

 そんな拵えだから、夏冬は命に関わる。
 夏は温室になり30度を超えた。空調を16度に設定して入れ続けないと室温が25度前後に保てない。冬はファンヒーターを30度に設定して、ホットカーペットをひいてやっと室温が20度前後になる。
 詰まるところ、空調効率がかなり悪いのだ。例えば普通の家で冬の寒さの原因になるのはアルミサッシである。このサイトによると、アルミの比熱は0.23cal/g/℃である。しかし、驚くこと勿れ。トタン(亜鉛鉄板)の比熱は脅威の0.10cal/g/℃である。普通の家でもアルミサッシのせいであれだけ冷えるのに、この家はその2.3倍も熱を伝えやすい素材でできているのだ。しかも断熱材なし。その結果、光熱費が鬼のようにかかる。しかし、空調をケチると命の危機に直面する。べらぼうに金食い虫の家が出来上がるのだ。この当時だからまだマシだったろうが、気温も電気代も上がった今ならアパートを借りられる程度の光熱費がかかるだろう。

 光熱費だけではない。雨の音は、トタンだからものすごくぺんぺんべんべん響く。風の日は家が揺れる。台風が来ようものなら、雨漏りはしないものの、睡眠に影響を及ぼすほどの賑やかさであった。
 さらには幹線道路の付近だったから隙間から排気ガスが流入して、天井が黒くなる。トラックが通れば家が揺れる。 

 ただし、このボロ屋に住んでいることは悪いことばかりではない。巨大地震が来たとしても、家に押しつぶされて死ぬことはないだろう。

トタン天国

 トタンは安価で、ちょうどいい。塀にするにもトタンを用いていた。バラックの窓から見える隣の塀も、トタンであった。
 小学校にまだ通っていなかったある日、停電を伴うほどのひどい台風がきて、いろんなものが吹っ飛んだ。そう、隣の塀もだ。
 隣の塀は畑に建てられていた。それが見事に吹き飛んで、台風一過の青空の下、シャッターを開けた時の遠くまで広々と見える光景にうっとりとした。この窓からこんなに大量の光が入ってくる日があるなんて思ってもいなかった。

 今でこそ、古い家が建て替わったり田んぼが住宅になったりして、当時の面影はだいぶ薄れてしまった。でも、あの頃のこの地域では、トタンの家が少なくなかった。友達の家もトタンの壁なんてザラにあることだった。
 だからこそ、こんな暮らしに慣れ親しんではいけない。人間的な暮らしをするんだ、という思いが強まった。

さよならバラック暮らし、現存するけど

 親父の代になり、庭を潰して新築の家を建てた。それに移り住んだことで、A面はバラック暮らしを卒業したのだ。
 しかし今でも母屋にバラックは残っている。台所の機能は失えど、祖母のウォークインクローゼットとなった。トタンのバラックは、家族の団欒の声を忘れ、ただの物置になった。こんな灼熱の夏が来る世の中、人が住むべき場所ではなくなったのだ。


ここまで読んでいただいてありがとうございました。
平成の世の中をトタンのバラックで過ごした記録でした。

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