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人は皆ポエマー〜あの頃の痛ポエムは何だったのか?〜

 「人は皆ポエマー」
 確か、インターネットが普及する前にコンビニなどで売られていた、VOWという面白画像投稿本にて出会った「街の壁に描かれた落書き」だったと思う。この言葉は私の心にズバリと刺さった。人は、誰でもポエムをよむ。相原コージ先生のコージ苑でもポエムをしたためる描写があった。何が恥ずかしいものか、人は皆ポエマーなのだ。正しくは、ポエット(詩人)であるのはいいとして……。
 ところで、私は大学生の頃、サークルを作っていた。写真を額縁に入れないをコンセプトとした写真サークルだ。日常の中の一コマなど、ありふれた作品を作るのがテーマだった。そんな中で、写真の中にポエムを入れる取り組みをしたのだが、来場客の中高年男性から「こんな恥ずかしいことが言えるのも若さだね」と言われた。しかし私には、恥ずかしさのかけらも何一つとしてなかった。そこにはサークルメンバーの今を感じる心が込められていたと思ったからだ。

なぜポエムをよむことは”痛い”のか?

 こんな主張をすれば、この記事だって、”痛い”記事になるのだろう。そもそも”痛い”とはどういう状態なのだろうか。今回は病んだときに披露されるポエム(病みポエム)を省いて検証していきたい。
 痛ポエムと検索するとすぐに出てくるのが、失恋系、片想い系、漆黒の堕天使系だろう。どこの誰が書いたかわからないポエムに対して痛いと思うのは、なぜだろうか。私の仮説はこうだ。「自分にも過去や現在にその内容に思い当たる節があり、それらを言語化したときにちょうどこのようなポエムになってしまうから」というものだ。気持ちに名前をつけたり、気持ちを言葉にして説明することを普段我々はしているだろうか。自分の気持ちというものは放っておくと曖昧にできるし、向き合おうとすると小っ恥ずかしいものでもある。また、漆黒の堕天使系については、覚えたての難しい言葉を口の中で転がすイメージだろうか、私の場合は少なくともそのような感覚だった。側から見れば、辞書で見つけた言葉だけで俳歌を作っているような状態であろう。覚えたての言葉も時が経てば新鮮さを失い、次第に”痛い”とジャンル分けされる言葉の羅列だ、と気づくことに痛みを感じるのだろうか。

ポエムをポエムたらしめるもの

 銀○夏生や松○谷由実のポエムや歌詞はよくて、自分のポエムがダメかといえば、そうではないだろう。先述した方の作からは文字情報の他に情景も感じ取ることができる。読んで気持ちが揺れ動く、情景が思い描かれる。つまり、読んだ人の心に働きかけて、揺さぶったり落ち着かせたりするのだ。
 歌詞も痛ポエムもどちらも心に働きかける、その点においては本質的には同じなのではないだろうか。人の数だけある恋愛の一ページに、共感できる歌詞があるように、誰かの心をえぐるポエムがあっても何らおかしくない話である。
 しかし、残念なことにポエムと歌詞は本質的な部分以外は違う。同じタンパク質でも、豚肉と牛肉が異なるのと同じである。では、ポエムと歌詞の差異はどういったものなのか。

「君のためにつばさになる 君を守り続ける」
「優しい言葉とため息でそっと私を責めないで」 
「二人して流星になったみたい」

みなさんご存知のあの歌です

 これらの歌詞はご存知の方も多いと思われますが歌詞として有名になったから「痛くない」のであって、一部だけ切り出してみると……それは見事なポエムではないだろうか。
 歌詞とは、歌うことを目的として書かれたものなので、サビなどは同じ言葉を繰り返すことが多い。一方でポエムは散文詩のことなので、起承転結も要らなければ、どんなテンポ・リズムで書いてもいいし、どんな言葉を使ってもいい。その自由さがポエムにはあるのだ。


あの頃の痛ポエムは何だったのか?

 本当に痛ポエムは黒歴史なのか。今の自分にとっては黒歴史かもしれないが、そのポエムは当時のあなたから出てきたダイヤの原石なのかもしれない。もちろん、痛いからと言って目を背けるのも間違いではないだろう。もし勇気があるのなら、そのポエムを鑑賞してみると良い。鑑賞を通して過去の自分の感傷に浸るのもまた乙なものだろう。その痛ポエムを乗り越えて、あなたは大人になったのだ。成長と共に着られなくなった服のように、そのポエムも、当時のあなたには必要なものだったのだろう。ネットの海のどこかで漂うメッセージボトルのように、いつか誰かがそのポエムを開く時が来るかもしれない。意を決してサイトを閉じにいくか、時の過ぎゆくままにその身を任せるか。
 何でも繋がれる時代になった今、痛ポエムはどこに書かれているのだろうか。少し検索すると、「LINE ステメ 痛い」「LINE ポエム」と出てきた。ちなみに筆者はLINEのステータスメッセージにポエムは載せない主義である。今では然るべき場所にしかポエムは載せない(つもりである)。筆者が中高生の頃にLINEがなくて本当によかったと思っている。私なら痛ポエムをステメにしていた可能性が大いにあるからだ。今の子どもたちは、デジタルタトゥーに怯えながらポエムを残していくのだろうと思うと、少し不憫な気もしないこともない。閲覧者が限られていた個人サイトでこっそりと痛ポエムをしたためていたあの頃が懐かしい。
 

……




 筆者の高校生の頃の痛ポエムで締めくくろうと思う。これはきっと他人から見れば痛ポエムである。最高に痛いポエムも出てきたが、読者の方の心をえぐりかねないので、ソフトなものにしておいた。このポエム、最後は短歌で締めくくられていた(完全に忘れていた)。

心の準備ができた方は下をご覧ください……。
古傷が痛む方はそのままブラウザバックでお戻りください。






「儚げな、メロディ流れる春の日に、もうさよならだ、教室は
よそよそしさを漂わせ、ご卒業おめでとうと書いてある。
黒板の文字が霞むゆらゆらと、涙で滲む。
君は今、何を思っているんだろう。少し遠い目してた気がする。
ハジメテを、たくさんくれた君だから、ずっと一番、大好きな人。」

A面が高校3年生の秋に書いたとされるポエム

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