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強豪私学がもっとも恐れる都立の名将!有馬信夫監督

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【出版希望】強豪私学の監督が恐れる、いい意味で嫌われている高校時代の恩師であり都立の名将、有馬信夫監督とのエピソードと教えをマガジンにして公開しています。監督の言葉を丁寧に思い出…
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2020年12月の記事一覧

都立が負けないために必要なこと

「気持ちで負けない野球」「チームが一つになること」 有馬信夫監督がチームを作る上での信念だ。 3年間で叩き込まれた。強豪私立に負けないために、必死で本気で取り組んだ。やる前から負けているのは論外。 年々部員数は減ったそうだが、開設当初は部員数が増え続け100人超えは当たり前。当然ながら野球部専用グラウンドがあり、硬式野球特別推薦も10人枠があり人気校だった。 どんな生徒でも有馬先生は部員を信じていた。 一般的にワルと呼ばれるような生徒もいたが、根気よく指導を続け社会へ通

一つの高校に固執しない

都立高校先生の異動サイクルは6年が基本。当然例外もあるだろうが、ベースはこの年数。有馬先生は都立城東⇒都立保谷⇒都立総合工科⇒都立足立新田での指導歴だ。 都立総合工科では10年指導していただいた。 聞いた話だが、都立城東で甲子園に出ても特にまだこの高校にいたいなどは思わなかったらしい。甲子園に出たにも関わらず。 「新しい学校でやれる楽しみがある。異動した高校でベースを作って後は後進に繋げばいい」 残された子供達が困らないように。そのことだけはずっと考えていた。 だから

社会と同じ。できないものにはやらせない

常日頃からだらしない選手には「そんなでいいのか?」「まだまだ甘い!」 高校生でも自立を求めていたし、甘い言葉をかけていた記憶は一度もない。 2期生に関しては主将の河西大樹が絶大な信頼もあり、チームとしてはまとまった。有馬先生も「俺が言わずとも河西が言ってくれるから」と。 今ではメディアを通じてよく放送されているベンチから外れた3年生による「引退試合」涙なしでは見られないような構成になっているが母校はこのようなものがなかった。 5月中旬に3年生全員参加の遠征があり、3試合目

頑張る奴は見てくれている

どんな奴でも受け入れるのは有馬先生のやり方ということはお伝えした。 ここでは自身の経験を伝えたい。 1期生にとって最後の夏である2008年。 大会に向けて練習へ励んでいた。実践練習の守備にBチームが就いた。 僕は二塁手。実はこのぐらいの時期からエラーが減り、打撃でも成績を残すようになっていた。だからこの守備でアピールしようと。 各打者の傾向や、投手の能力を考えてポジショニング。 配球で決める選手も多いが、僕は打ち方の癖で判断していた。配球で判断するということができなかった

労いの言葉は一切なし

本番は夏。 常々言っていたが決勝で負けたら1回戦負けと一緒。優勝しなきゃ意味ないぞ。 監督と生徒が信頼し合えれば結果は出る。日大三の生徒がよく「小倉監督を胴上げしたい」と言っているが、有馬先生を慕って入学したメンバーも多かった。当然こういうチームが理想であった。 結果は二松学舎大付に準々決勝で敗退。有馬先生が一番嫌いなサヨナラ負け。 ロッカールームに戻ると一言。 「ここで満足してしまったよね、本当に情けない」 お疲れ様と言われるのかと思いきや、ガツンと雷を落とされた。