一度去りし党員の伝言(中編) 著者:レキシ

前編の続き。

 はっきり言ってショックだった。そりゃそうだ。余裕で勝てると思ってて、勝利後の人事案まで作ってたのだ。その時の暗い感じをそれなりに覚えている。(ここでは話さないが、自由国民党代表時代の方が辛かった)

 代表選後村上さんたちは分党することを考えていた。(後に分党と分立で結構泥沼になるがここではそこには言及しない)村上さんに投票した人は大体分党メンバーの中に入っていた。当然推薦人は私を除く2人とも分党メンバーに入っていた。私はすねごん君に分党に参加しないかと誘われた。

 私は非常に悩んだ。最早中道右派系の人たちがみんな去ってしまえば、中央民主党は実質的に左派系の政党になってしまう。しかし、私には前編で話した、中民と進歩の協力体制を確実なものとする際に、もし私までもが去ってしまえば、協力体制が出来なくなってしまうと思った。それが嫌で、恐ろしくて仕方なかった。でも、残ってしまえば確実に自分自身は少数派になる。非常に苦しいことになるだろうことは明らかだった。どれを選んでも厳しくなる。とても苦しかった。

 結局私は残ることにした。少数派になることを覚悟したうえで、だ。自分の立場のために、自分の描く理想を捨てたくなかった。というよりかは、捨てることはできなかった、諦めたくなかったという方が正しいのかもしれない。

 八田代表体制下での中央民主党で、民主自由党(村上さんたちが分立した政党。後に進歩保守党へ合流)していないメンバーで村上さんを支持した主要メンバー(推薦人)で残ったのは私だけ。冷や飯を覚悟した。しかし、私に下した八田代表(当時)の処遇は総務会長のポストであった。(村上代表就任の場合の人事案では私は組織運動局長であったと記憶している。そう考えれば、総務会長の重みが分かるだろう。)もしかすると、中道右派系のさらなる分裂を避けるための施策だったのかもしれないし、八田さんの政治的な考えを見ていると、もしかすると過剰な左傾化は避けたかったための処遇だったのかもしれない。その時あたりに私は初めて閣僚になった。沖北大臣だった。そして、その時ぐらいだろうか、まっちゃんさんか、ウェリントンさんに声をかけられた。そこから全てが変わりだしていく。

 さて、一旦足踏みをするが、ここらへんであろうか、KABADIさんが中民の党籍を持ちながら、無所属として活動し始める。この件について言えば、私含め党内一致で(程度は違ったかもしれないが)批判的な考えだった。考えてみればおかしい話だと分かるだろう。党籍を持っていながら無所属を名乗ること自体矛盾しているが、その行動には明らかに他党からも支持をもらおうという意図が丸見えだった(実際そのようにしていた)。人によっては除名すべきとの意見も出たぐらいだ。(結局除名されたと聞いたが、実際どうなのか、風のうわさ程度なので私には知らない。)自分勝手な行動はやはり嫌われるし、イメージも悪くなる。そこは気を付けなければならない。

 さて、ここからが分立についての話だ。前述のとおりまっちゃんさん、ウェリントンさんから、少し話があるということで聞いてみたところ、中央民主党の左傾化を憂いているので、同じような考えを持っている人たちで、集まろうという話をした。その時私はうれしかった!本当にうれしかった!私と同じように感じていた人がいたなんて、本当にうれしかった!

 しかし、同時に理解していた。実質的にその行動は派閥を作る行動であることを。確かに少数であった。グループと言っても差し支えなかった。しかし、明らかそれは派閥であった。このことを公言することは当然初めてだし、そんなことは普通漏らさないだろうから、もしかすると初耳だったのかもしれないし、薄々感づいていたのかもしれない。この分立は、突発的に起こったことではなく、1か月前からある程度まとまったグループが形成されて、その中で計画されていたことだった。ある意味中央民主党からすれば、トラウマの再来だったかもしれない。しかし、元から分立を決めたわけではなかった。呼びかけた2氏と穏健右派さんと私の4人が、理想のために動き、最大限の努力をしたが、どうしようもならず、やむなくせざるを得なかったのである。

後編に続く。

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