一度去りし党員の伝言(後編) 著者:レキシ

中編の続き

 さて、分立の具体的な話に移る。2氏に呼ばれて以来、グループを作り、関係を深めた。このグループの主な目的は中央民主党の左傾化の防止、中央民主党と進歩保守党の関係の維持、回復、そして祖国戦線(当時。後の世論派の元)への中民加入阻止だった。

 そして少し経ってから、穏健右派さんが新たに加入した。彼は結構情報を漏らす方で、非常によろしくなかったし、感情的になることも多かった。しかし、まっすぐな方に見えたのも、事実であった。結果はどうあれ、桂メール事件で責任を取って去っていったのは残念に思う。私はやらされたとは言え、原告の代表者の代理を務めた。責任の重さは、私の方が重いのだから。逆であるべきだったのかもしれないし、そうなるかもしれなかった。まあ、その当時、大臣を務めていて、自由国民の代表も務めていたので、去るにも去れなかったが。桂メール事件やその後の話については別の機会にしたい。

 話を戻す。我々は目的のために動いた。しかし、中民と進歩の関係は少しずつ、しかし、確実に悪化していく一方だった。祖国戦線にはつかないという確約を八田代表(当時)にしていただいたものの、進歩との協力体制は厳しかった。八田さんの周りにいた中道左派系の人たちの力も働いていたのだろう。

 そして、改革民主党との合流協議でさらに厳しい状況になった。合流協議が難航し、私たちと代表らとで衝突があった。双方共に少しカッとなっていた。代表もスパイがいる中で、質疑応答は出来ないと言い、我々の中で反感が大きくなっていった。今考えると、当時進歩にいたはずのすねごん君がやけに中民内の情報に詳しかった。もしかすると、スパイを送っていたのかもしれない。ただ、そんなことが頭から飛んでいくほど、それどころではなかった。そこで、我々は分党(分立)路線に舵を切る決意をする。

 こうして、最終的に分立することになった。我々4人で、自由国民党を立ち上げ、私が代表に就任した。当時はやっと苦悩から解放されると思っていたが、今思えば、それは地獄への入り口だった。何度も言うがここから先はまた別の機会にしようと思う。今、気になるのは八田代表は当時どう考えていたのかだ。周辺の中道左派系の人たちと考えを一にしていたのか、右派も左派もいる独立した立場を望んでいたのか、はたまた白石さんに唆されただけなのか・・・結局分からなかった。別に聞くことはしないが、もし最初か最後であれば、分立せざるを得なかったのだろうが、もし2つ目であったのなら、間違いだったのかもしれない。ただし、後悔はしていない。波乱の空国の中、なかなか楽しんだ方であるとは思う。

 最後に教訓めいたことを言うが、中央民主党は、右派も左派も抱擁できるような、真に中央な、中道な政党であってほしい。結局祖国戦線・世論派に入った中央民主党も、別れることは予定調和だったのだろうが、合わないことがあっただろう。そうなると当然不満もあっただろう。結局は中央民主党は、「中央」民主党なのである。僕の知っている党員の人たちはみんな保守系だらけなので、右派の方が多いように見えてしまっているが、今はその理想に大きく近づいていると思う。そのことをかみしめつつ、頑張って維持・発展してほしい。



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