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説明をする側に歩み寄るということ

こんなPostがあった


『情報を見たい側』と『情報を提供する側』

こちらを読んで思ったのが「情報を持っている側と見たい側がそれぞれ同等にしか情報開示に割ける猶予がない場合に、どこまで情報開示にどれだけパワーをかけるか」というところ。

透明性や情報の非対称性みたいな話題になるときは大概が『情報を持っている側』と『情報を見たい側』という構造になることが多く、そして『情報が見たい側』の意見として

・情報を開示してくれない
・情報を開示しても開示された情報がどこにあるかわからない
・情報を開示してくれても情報が整理されていないので見れない


というような話を聞くことが多い。

そのため、このようなことを解決する際に話に出てくるのは『情報を持っている側』が如何にして情報を提供するか、情報のアクセシビリティ整備や情報を受け取ってもらいやすいように仕組みを整備ことに対して動くことが多い。

ただ、このような『情報が持っている側』が提供するための改善活動ができるのはそれがクリティカルな課題として大きく問題をはらんでいるときであり、そうでない場合は日々の活動の中でどうにか善処していくぐらいのパワーしかないケースなどもありうる。

開示に前向きでもこじれるケース

もし交通整備ができるほどの余裕はないが、『情報を持っている側』が「可能な限り情報は開示したい」という情報開示に前向きであったとする。ただし余裕があるわけではないので開示に対するパワーを割くのは限られる。

たとえばプロジェクトで行われる定例ミーティングに関しても「議事録に記録する」ということで情報開示を実現したとしても、議事録の確からしさは参加したメンバーで認識合わせが行われるため、録音したものと比べると抜け落ちる情報も出てくる。そのため『見る側』からすると「この情報が抜け落ちている」というように見えることもあるし、性悪説な見方をすると「隠蔽した」とも取られかねない。ただ、『持っている側』としてはミーティングに参加しない非ステークホルダーへかけられるパワーも限られているので、かけられる労力には限界がある。

このように「開示する努力をしていても、ほしい側からすると足りない」ということが時たま起きる。

『見たい側』も受け取るだけではなく、寄れる限り寄る

このようなはなしを解決するには『情報が持っている側』がしっかり見たい側のニーズを把握して提供できる情報を整備してあげるのももちろんなのだが、『見たい側』も提供側の負担をへらすためにはどういうことをすればいいのかという動き方もあると双方幸せになるんじゃないかなと思う。

無論このような状態になるのは疑心暗鬼になるのはお互いの信頼関係の醸成ができていない、という話もあるとは思う。『情報が持っている側』も「がんばって開示しているのにそんな言い方はないじゃないか!」と思う前に信頼構築に問題がなかったか、というところは胸に手を当てて考えたほうがいいし「ちゃんと開示を頑張っているが足りていない部分があれば許してほしい」といえるような土壌づくりをすることも「開示する」という行為の一つなんだとは思う。

そういう意味でこにふぁーさんの記事にあった

説明を受ける側は、ある程度ゆるく「まあ説明する方も大変だし一緒に補完していくか〜」みたいなスタンスでいる方がよい。その方が無駄にイライラしなくて済むし健全である。これは「相手に対する期待値を高く持たないこと」と捉えることもできるが、どちらかというと「ゆるい信頼」みたいな感じで接することができる状態が理想だと思う。 - https://konifar-zatsu.hatenadiary.jp/entry/2021/11/09/152137

みたいな関係性で『見たい側』が足りてない部分を補完するために動いてくれたり、能動的に足りてない部分を取りやすくするのを手伝ってくれると幸せな世界になるんだろうなと思いました。

今日書き留めて置きたかったのはそんなところです。


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