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模索

葬送のフリーレンをみて、
死生観をテーマに作品を作ってみて、振り返る今までのこと。


死生観を語ること、死について語ることは、
重いよね、宗教みたい。そうやって案外周りにはそう言われることが多かった。
うすら笑いされることも多かった。
なぜ死生を深く追求するのが笑いのネタになるのか、
すごく傷ついた時もある。

死ぬのが怖い、死が不吉であること、それは拭えない事実であり
そうやってレッテルを貼って遠ざけることも今ならよくわかる。

深く考えるのが怖いこと、よくわかるから。


私は今まで死の受け入れ方を模索してきた。
それは私が失ってきた人に対しての、謝罪の意味が大半だ。

生きている間に何もしてあげられなかったこと、
その人がずっと私を待っていたことを、失った後に気づいたこと。
まだ心が幼くて、理解できなかったこと。
泣くことしかできなかったこと。

取り返しのつかないことの数々が今も夜に現れて、
泣きながら頭を下げても
でもそこには誰もいなくて、思いが一方通行のまま消え去っていく。

ずっと心の奥がつっかえていて、
死を受け入れられていない19歳の私がいた。


卒業制作を作ることになり、
何か表現したいことがあるかと言われて、
『死について』。そう思い浮かべた。

まだ何も心の中で解決していないこと。

死に対して向き合い続けることが、唯一できることであり、
失った人の近くまで思いを届けられるようになる手段なのではないかと思った。

無知のままでは、多分どこにも届かないから。

誰かが誰かを思うことを知り、愛を知り、
生命とは何かを探る。未知の真相を思い描くこと。

少しずつ心を縛っていたものが緩んだ気がした。


一番大きく印象に残ったのは、祖父の遺品を見せてもらったこと。
ラジオが好きなところ、若い頃の写真など、
その人の人生をいろんなものが寄り添って残してくれていた。

たくさんの祖父ではない姿を知り、
私はたったの18年間しかこの人を知らなかったんだと、
長い長い歴史を閉じたことの重みや壮大さをその時感じた。


卒業制作を通して、死生観をテーマに考えてきて、
何かを得たというわかりやすいものはなかった。
でも、失った人はいなくなったわけじゃなく、目に見えないだけでどこかで繋がっている。
自分の中の生命のルールができた。

ドラマや映画でよく聞く言葉で信じていなかったけれど、
自分が納得のいく根拠でその言葉を
自分で作り出すことができたことに意味があったなと感じている。
私の言葉が届くんじゃないかな?という望みもできるようになった。


私は葬送のフリーレンのアニメを見させてもらっていて、
失った人への後悔や、その人がくれた愛情を思い出しながら生きていく物語に、毎回自己投影しながら噛み締めている。
私は辛さや後悔が大きくて、まだフリーレンのように優しい笑顔で思い出すことはできないのだけど、いつかその愛情だけを見つめることができたらいいなと、
天国でいつか会える時まで、その人たちに自慢できるような人生を送れたらいいなと思う。



あとがき:大切な考えを否定されても、誰かに共感されなくても別に良いんです。夢中になって突き詰めて一人でなにかと繋がって。その自分にしか感じられない唯一無二が一つでも心の中にあることが、生きる上で大事なのだと思います。


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