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近親相姦に纏わる悲恋の物語:兄と妹、母と子など、日本各地の伝承


◎船明の兄妹地蔵

 浜松市天竜区船明には「船明の兄妹地蔵」または「行者山の道祖神」と呼ばれる兄妹地蔵があります。

船明の兄妹地蔵

 天竜川沿いの船明の村に暮らしていた仲の良い兄妹が、年頃になっても縁談がなかったために夫婦のように暮らし始めるのですが、やがて二人の間柄は村の噂となり、罪の重さを感じた二人は、手と手をしっかり握り合って天竜川の船明渕に身を投げてしまうのです。そんな二人を哀れんで作られたのがこの兄妹地蔵なのだそうです。現在は長養寺の境内にあり、縁結びの地蔵として崇められています。

 道祖神と呼ばれる男女をかたどった地蔵は全国各地に残っています。以前、うちのマンションから近い人形町界隈を散歩していると、旧遊郭跡地でもある古い商店街の片隅にさりげなくそれが置かれていてびっくりしたことがあります。

 そもそも村境などの道端に小祠で祀られるこれらの像は、塞の神(さえのかみ)と呼ばれ、旅人や客人の来訪により、外部から邪霊が侵入することを防ぐ目的で作られていたそうです。ところが、それがいつしか土地により、中国の「道祖」の観念と習合して「道祖神」と呼ばれるようになります。

 「道祖神」は男女二体の像で表されることが多く、場所によっては夫婦を表したもの、場所によっては兄妹(父と娘のパターンもあるそうです)を象っています。なぜ、兄妹なのかというと、イザナギとイザナミに代表されるような、各地の兄妹始祖神話が大きく影響しているそうです。

 群馬県や九州には男根をモチーフとした道祖神や、女性器をモチーフとしたユニークな道祖神も残っています。また、片方が相手の乳房を触っていたり、相手の男根を触っていたり、性交渉しているところを彫ったものなどもあります。群馬で調べると、「落合の交合道祖神」や「六合村の交合双体道祖神」、「沢渡の乳揉み双体道祖神」など変わった形のものがあります。地域によっては厄除けというよりも「性の神」として祀られていて、奥が深いなと思います。

◎八丈島の母子始祖伝説

 伊豆諸島の八丈島には「丹那婆(たなば)」伝説という有名な近親相姦の伝承が残っています。この伝承によれば、昔、八丈島では大きな津波があり、村人たちがみんな死んでしまった後、一人だけ助かった女性がいて、それが妊婦さんだったというのです。彼女は島に残って男の子を産み、その子が成人してから母子交合をして子孫を増やし八丈島の住民たちの祖先となったという話です。

丹那婆の墓

 「丹那婆(たなば)」というのがその妊婦の名前だそうです。この「丹那婆(たなば)」伝説は明治時代になって作られた創作だとする説もありますが、島には「丹那婆(たなば)」の墓も残っていて、町文化財に指定されています。

 また、同じ八丈島の伝承で、八十八江姫がその息子・古宝丸(宝明神)と八丈島を繁栄させたとする別の伝承があり、優婆夷宝明神社(総社)に二人が祀られています。「丹那婆(たなば)」の伝承と少し似た話で、その関連性がよく議論に上がります。

◎衣通姫伝説〜近親相姦で島流しにあった皇族の兄と妹〜

 衣通姫伝説は前述の「船明の兄妹地蔵」と似た話なのですが、宮中の話で、政治も絡んだ複雑な近親相姦伝承です。

 第19代天皇の允恭帝(西暦5世紀頃)には9人の皇子・皇女がいたそうです。そのうち、皇太子の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)が近親相姦の関係にあったというエピソードです。

 軽大娘皇女は『古事記』によれば「衣通郎女」、または「衣通王」と呼ばれるなど、たいへん容姿の美しい女性だったようです。二人は年頃を迎えた頃から思いを寄せ合うようになり、やがて体の関係を持ってしまいます。当時は母親が違えば婚姻も認められていた時代だったのですが、同じ母を持つ近親者同士の情交は禁忌でした。

 木梨軽皇子の強い決意が見える歌が残っています。歌の中で木梨軽皇子は「こうなってしまった以上、何が乱れても構わない」と軽大娘皇女への思いを口にしています。ところが、二人の肉体関係が周囲の知るところとなると、これを問題視する人が現れ、允恭天皇の死後、木梨軽皇子は失脚してしまい、伊予国姫原(今の愛媛県)へ流刑となってしまいます。

 その直前、木梨軽皇子のそんな非道徳な行動をよく思わなかった家来たちが、次の天皇候補に、皇子の一人であった穴穂皇子(安康天皇)を立て、これをきっかけに、木梨軽皇子が穴穂皇子と対立して、わずかな味方と共に穴穂皇子を討とうとし、失敗したのが、名目上の失脚の原因と言われています。

 軽大娘皇女は流刑となった木梨軽皇子を追い、伊予の国へ向かいます。そこで2人は再会するも、共に自害して果てたというのが有名な「衣通姫伝説」です。昔の話なので、実際のところはどうだったのかはわかりませんが、『日本書紀』ではこの「衣通姫伝説」とはまた違った結末が書かれていて、天皇の跡継ぎとなる木梨軽皇子は結局、罪を問われず、軽大娘皇女だけが伊予に流されたとあります。

 愛媛県松山市姫原にある軽之神社には今も2人が共に祀られ、比翼塚が建てられています。不思議な話なのですが、即位した穴穂皇子(安康天皇)もその後、同じく同母妹の中蒂姫を妃に迎えています(諸説あるようですが)。悲劇の二人とは対照的になぜ穴穂皇子の場合は同母妹との近親相姦が許されたのでしょうか。

 想像ですが、近親相姦は家来も巻き込んだ権力争いの中、木梨軽皇子を失脚させるための、一つの口実でしかなかったのかもしれません。穴穂皇子はその後、幸せだったかといえばそうではなく、中蒂姫の連れ子に討たれて命を落とすという、劇的な最期を迎えています。

(了)

※写真はネットからの拾い物です



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