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気が合わない人と話すことの無意味。

気が合わない人と話すことの無意味。

話していて話が止まってしまう人がいる。そもそも、「これは話したい」「これは、この人に話すのはやめておこう」と話題を切り分けると、後者がダントツに多くなってしまうという原因もある。

しかし、本音を囁くなら、そもそも話したいことが思いつかない。思想家・哲学者の内田樹は「その人と会う前には思いつくことすらなかった思想が、話しているうちに、次々と思いつくのが本当の対話だ」と述べる。逆に、丸暗記していた内容をひけらかすとか、誰とでもできる天気やゴシップの話に終始されたとき、「あ、自分じゃなくてもいいんだな」と気持ちが冷める。

つまり、「いま、他ではない貴方と話しているから、思いついた話なのだけれど…。」と口を開ける会話が、いかに出来るかということが、その人への愛の強さに直結する。逆に言うと、5分程度の立ち話ですら、その程度の愛を持って向き合えないのは、相手への冒涜に他ならない。すこし過激な意見だが。

もちろん、社会では、そんな愛着の湧かない、もしくはこちらが創造的会話をしようと思っても紋切り型の会話でしか向き合ってくれない人とも仕事や近所付き合いで関係を持つ必要がある。

その時に、ビジネス的な、事実を伝える会話、もしくは最低限必要な、感情に共感する会話をする。できる限り、一緒の時間を楽しめるように笑顔で接する。しかし、そのような関係では、「友人」にはならない。

話が変わるが、日本にコーチングの概念を持ち込んだ苫米地英人は、現状に変化の芽があるのに、それを見えていないのでチャンスを掴めない状態を「スコトーマ」と表現した。

成功するには、まず、自分のやりたいことを未来から見たバックキャストの視点で言語化する事で、スコトーマが外れるのだと。

 (ちなみに、SDGsの目標の立て方も、20世紀型のファーキャスト(現状の積み上げでゴールにたどり着くモデル)ではなく、バックキャストで2030年に向けて[2030Agenda]によって目標設定されているところが、新規性の一つである。)

鷲田清一は、人は偏見から逃れることは出来ず、せいぜい他の偏見に鞍替えする程度だ、という事実を「私たちは眼鏡無しで世界を見ることはできないし、せいぜい眼鏡を掛け替えることしかできない」と表現した。

鷲田の洞察するとおり、自分で見る世界は、自分の「常識」というレンズから逃れられない。しかし、他者との対話を通して「この人と話すならば、この内容を語りたい」と、他者の思想に共鳴して、今までの自分では考えてみなかった事が、ぽんっと出てくる事がある。

前田の『メモの魔力』にて述べられているように、言語化することはゼロから1を創造する作業だ。一度言語化すると、それを新しい「当たり前」にして、さらに前に進む事ができる。僕らにはそのように、一歩ずつ、当たり前を更新する事でしか、前に進めない。

ならば、2つの独立した数どおしの、共通因数を括り出すように、関わり合った他者によって響き合うものは変わり、それによって言語化することも、言語化して行動して掴む未来も変わる。だから、僕はここだけ聞くと性格が悪いが友人を選ぶタイプだし、仲良くなりたいと熱望した人としか連絡を取り合わないし、その殻を突き破って仲良くしてくれている人を愛しています。重いね。


2022/04/23
ところで、段落分けは、意味ごとに区切るのが基本なのですが、この文章、綺麗に意味ごとに区切れていませんね。

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