レンズのような詩が書きたい

レンズのような詩が書きたい。その人自身の中にある感情や、物語を少しだけ違う色に、見せるような、そういうものが書きたい。(最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』)

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完結した小説なんて、ないと思う。

小説に共感して、寝る間も惜しんで必死にページを繰るのは、その作品がどこか"自分ごと"だという直感があるからだ。

朝焼けのもやを結露のついた窓越しに眺め、徹夜して読んだ後悔と、それを上回るけだるい満足感に身を浸した日。

小説を書いていると、「これは自分の作品だ」という恋人への独占欲にも似たエゴを抱く。しかし、きっと読んでいて心地いいのは、読み手が違和感なく文字列の波に沈んでいける、そんな小説なのだろう。きっと、そこには、書き手のエゴとか、自分らしさとか、「こういうの書いたら頭いいと思われそう」という謎の打算による言葉選びとか、そういうどろどろした自己顕示欲をばっさばっさと刈り込んでいくことで、姿を表す、読みやすさなのだろう。

似た話で、デートの会話をするときの心理学の研究を読んだことがある。話し手の男は、相手の知らない、自分だからこそ話せるテーマを俎上に上げると、すごいと思われるのでは、と期待する。しかし、実際に女性側の満足度が高いのは、両者が知っている共通のテーマを話した時だそうだ。文章も、それと同様に、誇ったり、オリジナリティを押し付ける必要はなくて、自分と相手の胸の中にありそうな共通の要素を、すっと抜き出して文字にすることが肝要なのだろう。ハンターハンターのキルアが、気づかれないうちに心臓を抜き出したみたいにスムーズに。

ところで、端的な文章が書ける人って「〜と思う」とか「〜だろう」とか、推測のニュアンスでぼやかした語尾を極力、切り捨てている気がする。その文章を刈り込む勇気のようなものは、生来のものなのだろうか。

2021.12.17 ホットココアが似合う冬の朝に


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