〈エッセイ〉マスクの下の赤い口紅
それは、駅のトイレに入って、手洗い場の列を待っているときのこと。
化粧直し用の鏡の前に、綺麗な女の人が立っていた。
ヒールを合わせたら、身長は175cmくらいだろうか。ヒールの高さを差し引いても、目測で170cmくらい。
背の高さを気にする女の人も多いけれど、その人は、ぴんと背筋を伸ばして、堂々と踵の高い靴を履いている。
着ている服も、持っている鞄も、髪型も、凛としていてカッコいい。
こんなとき、つい観察を始めてしまうのは、私の悪い癖のひとつだった。
鞄の中を探って、ハンカチを探すふりをしたり、蛍光灯を気にするような素振りで、ちらりちらりとその人を見る。
私のすぐ前で手を洗っていた人は、しきりに前髪とアイメイクを気にしていた。
その凛とした女の人は、丁寧な仕草でマスクを外した。
その下に隠されていたものを見て、私は、はっとする。
それは、赤い口紅をひいた唇だった。
はっきりした色彩で、使い方を間違えれば下品な印象になってしまいそうだけれど、その人は違った。
ぱきっとした赤だけれど、色の三原色そのままの赤ではなくて、オレンジとか、ピンクとか、色んな色彩が絶妙に混ざり合っているような、どこか、上品さのある色だった。
きっと、すごくこだわって口紅を選んでいるのだろう。その口紅の色は、その人専用かのように、彼女にぴったり似合っていた。
マスクの下で、見えないのに。
でも、常に見えてないからこそ、ちらりと見えたときの鮮烈な印象は強かった。
私に手洗い場の順番が回ってくる頃、その人は口紅をひき直して、しっかりマスクを着けて、颯爽と女子トイレを出て行った。
マスクの下でも、こだわりに対して手を抜かない赤い口紅。
なんだか、それは、陰で懸命に努力をしていながら、それを微塵も感じさせない、あの人のようだ。
努力が透けて見える人は、カッコいい。
でも、表からは透けて見えないのに、陰で努力をしている人は、もっとカッコいいと私は思う。
陽の光の当たらない場所でも頑張れる人は、先陣を切ってリーダーシップをとる人よりも貴重だと思う。
誰もが、承認欲求を持っているからだ。
おおっぴらに出さなくても、会話の中で「こんなことをしている」と少し匂わせたり、誰かの目につく所でわざとポーズをとったり、つい「誰かに見てほしい」と思ってしまう。
「すごい」と言われれば気分が良いし、憧憬の眼差しが自分に向いていると、誇らしくなる。
それを、あえて人目につかない所で、陰で黙々と努力できる人は、毅然としていて、眩しい。
それができる人は、努力が「自分のためのもの」であることを分かっているのだと思う。
「努力は、裏切らない。」とよく言われる。その努力を信じているのは「自分」で、努力が裏切るかもしれないのも「自分」だ。他人のために努力する人が、この世にいったいどのくらい居るだろう。
評価されるためのツールではなく。
自分を誇示するためのものではなく。
自分を磨き、自分を高めるもの。
自分を支えるもの。
それが、「努力」。
あの赤い口紅の女の人も、もしかしたら、自分のためにお化粧をして、赤い口紅をひいているのかもしれない。
お化粧を、「マナーだ」と言う人もいるけれど、それは違う。
マナーは、周りにいる誰かのためにあるものだが、お化粧は、誰かのためにするものなのか。
自分を少しでも可愛らしく、美しく見せたくて。
弱い自分を強く見せたくて。
自分の気持ちを上げて、今よりも自信をもちたくて。
装飾として、あるいは鎧として、するものなのではないか。
口紅には、古来より魔除けの意味があったそうだ。
神社の鳥居も、還暦祝いのちゃんちゃんこも、赤い。
ならば、口紅も、自分を守るためのものなのではないか。
自分のために、自分で努力する。
自分のために、自分を飾る。
その姿勢が、まわりまわって誰かに影響を与えたとしたら、「自分のため」は、いつしか「誰かのため」になる。
今の私は、「誰かのために」なんて言えるほど立派ではないけれど、それを目標にして、まずは「自分のため」の何かから始めてみたい。
赤い口紅はまだ早いから、春に向けて、桜色の口紅でも探してみようか。
いや、そもそも、お化粧自体が、まだ私には早いかもしれない。まだ何もかも中途半端な内面を、外見を飾ることで無理やり完璧に見せるのは、なんだか違う気がする。
本を読んだり、色んな人と話したり、内面をしっかり磨き上げて、さらに自信をつけるためにするのが、お化粧ではないか。
口紅を探しにいくのは、もう少し、自分の内面に磨きをかけてからにしよう。
いつか、マスクの下に赤い口紅をひいたあの女の人みたいな、素敵な女の人に、なれるように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。 私の記事が、皆さんの心にほんのひと欠片でも残っていたら、とても嬉しいです。 皆さんのもとにも、素敵なことがたくさん舞い込んで来ますように。