【新城マガジン】親父が守り続けてきた焼き鳥屋をこれからも守り続けたい-昭和52年創業 やきとり近江屋 2代目 松本染五郎さん
【近江屋ができるまで】親子2代で営む焼き鳥屋『近江屋』名前はおじいさんから繋がっている。
近江屋がどのようにできたのか教えてください
昭和52年に親父が立ち上げた焼き鳥屋になります。
親父は元々は靴屋で働いていて、雇われるよりも自分でやりたいという想いがあり、独立を決意。最初はラーメン屋か焼き鳥屋のどちらかをやろうと考えていたようです。どうしてか忘れましたが、焼き鳥屋をやることに決めました。そして、お店を始めるために最初は武蔵新城で1番古い焼き鳥屋の遠州で修行をして焼き鳥屋をオープンしたと聞いています。
遠州での修行は3ヶ月間の予定でしたが、遠州の大将に気に入っていただき、半年働いたようです。ただ、焼けば焼く程、上達するので、その間にたくさん練習したようです。
そして、昭和52年にお店をオープンすることになりました。
オープンした当初は新城の街には大きな会社の独身寮があり、その人たちが気に入ってくれて開店と同時に満席になることもよくありました。たとえば、ある会社がノー残業デイの時に、16時に2人きて、「今日はうちの会社で全部貸切ね!」そんなくらいに盛り上がっていたと聞いています。
どうしてお店の名前が「近江屋」になったんですか?
近江屋の名前の由来は、おじいちゃんが滋賀県近江出身で、上京して赤坂で「近江」という居酒屋をやっていたことから、創業当初は「近江」という名前をつけたと聞いています。
そして平成3年に現在の場所へ移転した際に「近江屋」という名前になりました。
おじいちゃんとの不思議な繋がり
2歳になった頃に亡くなっているのですが、小さいながらもおじいちゃんの記憶はありました。自分が自宅の縁側のところで、誰かに抱っこされていて、上からおじいちゃんを見ている。その時はもう寝たきり状態だった。おじいちゃんとは喋ったことないし、遊んだ記憶もないけど、その絵以上だけ残っている。
また、おじいちゃんはたくさん孫がいたけど、誰も抱っこをしたりしない人だったと聞くけど、孫の中で唯一抱っこしてくれたのは自分だけだったと聞く。本当にたまたま偶然だったとは思うけど、今近江屋を引き継いでいることは、何かしらおじいちゃんとの繋がりがあるのかなと考える時もあります。
【引き継ぐきっかけ】生まれて初めて、親父から頼まれた「やってくんねぇか」
高校を卒業して縁あって植木屋で働くことになりましたが、厳しい環境に慣れずすぐにやめてしまい、そこから近江屋を手伝うことになりました。
当時は、親父が仕切っていて言われた通りにやっていたし、焼き鳥屋を継ぐということは考えていなかったです。
そして、当時はバブル崩壊の景気が良くない時。なので、パートのおばちゃんが辞めようか悩んでいるのを聞き、「いや、辞めることないよ」と言い、自分が辞めて、外へ出ようと決意して、職人の世界の建設業界へ入りました。
建設業界ではいろんな職種を経験して、その間に結婚をして、子供もできて39歳になる時に、たまたま散髪の帰りにお店から親父が出てきて、ちょっと話があると言われて「何かな」って思ったら「店をやめようかと思う」
「景気も悪く昔みたいに繁盛する店じゃなくなっているんだ」と伝えられました。お店からは随分、離れていて、昔の繁盛しているイメージしかなかったので、そのイメージが全然わからなかったです。
そして、親父が「辞めようとは思っているけど、もしやれるんなら、やってくんねぇか」
人生で初めて、親父から頼まれたことでした。
それを聞いた時に「やらねぇ」と言う言葉は出てこなかったです。
すぐに嫁に相談し、また嫁のお母さんにも相談。実際のところは相談というより、報告でした。
お母さんは元々飲食をやっていた人だったので、「飲食は厳しいよ」と言われましたが、「でも、もう決めたんでしょ? 決めたなら、やりなさい。後のことは気にしなくていいから」
そう言って応援してくれた。そして、近江屋を継ぐことになりました。
【引き継いでみて】親父の時からのお客さんも大事にしながら新たなお客さんも来れる場所に
近江屋で仕事を始めた当初、お店も悲惨な状況だった。お客さんは本当に数えられる程度で1日に数人。そしてあんなに元気だった親父が、覇気がないように感じたのを覚えています。
お店にお客がたくさん来ていた時を知っている分、1日数人だけしかお客が来ないというのは気が滅入ってしまっていたんだと思います。
それでも親父が近江屋を続けてこれたのは、こんな状況でも毎週必ず来てくれる常連さんがいたからだと思っています。
覚えているのが、毎週木曜日になると必ず来てビールをたくさん飲んでくれる方でした。だからせめて木曜日はその人のために、やんなきゃいけないっていう思いがあったから親父は頑張ってやってこれていたんだと思った。
また親父が始めた当時の独身寮の若い人たちはみんなもう定年退職している人がほとんどで昔のように頻繁には来なくなってしまったけど、たまにふらっときたりすると面白い会話が聞こえて、「おぉ親父まだ生きていたかー!」と話しかけてることもよくありました。
「あぁ、こういう感じがなんかいいな」って思うし、この常連さんたちがいたから、どんな状況でも親父は近江屋を続けて守って来たんだなと思っています。
だからこそ、自分が入ったからには守って行かなければならないと覚悟を決めました。
そして、なんとかしなければいけないと思い、まずはハッピーアワーをやってみました。
夕方17時から19時までは生ビール300円。あとはテイクアウト商品も始めようとメニューを作成してチラシを店の前に置いたりして、どうにか新しいお客さんが来てくれる方法はないかと模索しながら営業を続けていました。
そんな時に新城の畳屋の大谷さんが「今せんべろの企画を考えているんだけど一緒にやらないか?」と誘ってくれた。「やる」と言って即答でした。
簡単に言えば1000円のメニューを作って提供する。これなら難しく考えず、すぐにできる。
そうして、イベントに参加して、最初は2週間だったからそこまで忙しくはなかったけど、お客さんは来てくれた。やっぱりお客さんが来てくれるってすごく有難いし嬉しかったです。
そして、昔からのお客さんも大事にしながら新たなお客さんも大事にして、徐々に昔のような活気が戻ってきました。
【今の想い】親父からの感謝の言葉はないけど、感謝は伝わる
元々、親父とはあまり喋らないけど、歳をとっていくにつれて話もするようになりました。
今更だけど、一緒にやっててよかったなと思うし、なんならもっと早くからやっていれば良かったなとも思う。
俺の中ではこのお店は親父の店。親父が死んでも親父の店。1から自分で作ったものに関しては自分のお店と言えると思うけど、ここは親父が作ったから親父の店だと思っています。
自分はその親父の店を継いだ2代目。今も一緒に働いているけど、親父がたまに常連さんと話している時に、「もうお店は息子に全部任せているから」そう言ってくれるのは有難いって思います。
直接「ありがとう」と言われることはないけど、親父が認めてくれていることが感謝だと思っています。
今は77歳でまだ現役で働いてくれている。でも、足腰がだいぶ弱くなってきて、時々痛むことも言っているけど、45年もずっとやり続けた仕事をいきなり途絶えさせてしまうと絶対に老いてしまうと思う。
なので、座っててもいいから、ずっとやらせてあげたいなと思っています。
【これからのこと】今が誠意一杯。このお店を守ることが優先
コロナになり、今はまたお店が大変な時です。やっと社会の情勢も徐々に変わってきてはいるが、まだ昔のような元気さは取り戻せていないのが現状です。
なので、今の状況を精一杯やっていき、親父が作ったこの近江屋を守ることが最優先。
そして、また親父が忙しくて怒ってしまうくらいになれば、新しいことにも挑戦したいなと考えています。
他の店を作ることでもなく、親父が作ってくれたものをより多くの人に届けられるようにしたり、それから新たな形として届けていきたいなと考えています。
例えば、この店で1番大切なものである、創業から継ぎ足しの秘伝のタレ。お客さんからも「やっぱここの鶏皮のたれうまいよね」って言われるとすごく嬉しい。
なので、このタレを使った新たな商品を作って、また、お客さんを喜ばせられたらいいなと思っています。
焼き鳥を美味しいと言ってくれることは親父を褒めてくれること。これからも美味しいものを提供して満足のいく近江屋を守っていきたいです。
【店舗情報】やきとり近江屋について
商品へのこだわり
近江屋の焼き鳥の大きな特徴といえば「すりおろし生姜」と昭和52年から継ぎ足しの「秘伝のタレ」
親父さんが遠州で修行していた時に食べていたものを近江屋スタイルにアレンジしたもの。
生姜のピリッとした味が堪らずお酒とよく合います!また秘伝のタレも濃厚で旨味たっぷりの美味しさ。
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