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一生に一度

こんな美味しいお肉、一生で一度食べられるかどうかですよ。

テレビ番組でとある女性レポーターが高級な牛肉を使った料理を食べながら言っていた。
誇張し過ぎの表現が若干嘘っぽくも聞こえたが、これまでの人生を振り返ってみると、そのコメントのように、ちょっとした経験でも一生に一度のことは多い。

学生時代、小雨の降る夜、大学から帰宅途中のこと。
最寄り駅の改札を出ると自宅まで我慢出来ないほどの尿意に襲われ、駅ビルのトイレへと向かった。
急ぎ足で駅ビル内のトイレに続く道を歩いていると、年頃は二十代後半、色気ムンムン、香水プンプンの女性がハイヒールの音をたてながら早足で僕を追い抜いていった。
その女性もトイレに向かっているようだったので、トイレの入り口付近で交錯してしまわぬように僕は歩く速度を落とした。
すると、前を歩いていたその女性が地面に折りたたみ傘を落とすのが見えた。
女性は落としものをしたことには気づかず、そのままの速度でトイレへと向かっている。
僕は歩む速度を上げ、女性の落としものに近づいた。
「傘を拾ってくれてありがとう。あら大学生さん?この後、私の行きつけのバーで一杯どう?」
なんてことを言われたら困っちゃうなぁ、本当に困っちゃうなぁ、困る困る、もしそんなこと言われたらパニックになって顔がドラゴンボールのミスターポポみたいになっちゃうなぁ。
などとあらぬ誇大妄想をしながら女性の落としものまで歩み寄り、拾いあげた。
手にした落としものを見た僕の顔はミスターポポになった。
その落としものは折りたたみ傘ではなく、密封されたパッケージに入った棒状の「ニシンの昆布巻き」だった。
妖艶な女性の予想外の落としものに僕はパッケージに印刷されたどこぞの書道家が書いたような「ニシンの昆布巻き」の極太文字を凝視し、立ち尽くしていた。
ニシンを見つめて「無(む)」になっている僕に女性が気づき、トイレの入り口付近から僕の所へゆっくりと歩いて来た。
僕がニシンを女性に渡すと、女性は「ありがとう。これ、お客さんのお土産なんだけど、いる?」と言った。
僕が「あ、いや、、、」と口ごもっていると、女性はモナリザの微笑みのような複雑な微笑みを浮かべた後、無言で女性用トイレに入っていった。

僕はあれから一度も道で「ニシンの昆布巻き」を拾ったことは無い。

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