「哲学は役に立たない」のか(1)

1. 「哲学は役に立たない」という発言は、しばしば見られる。社会で活躍している企業人から、あるいは他の専門の研究者から、あるいはどこの誰ぞとも知らない一般の方から。ネットで検索すれば、哲学に対する罵詈雑言はワンサカ出てくる。みんな、そんなに哲学がキライなのか・・・、と感慨深い。哲学のイメージは、どうやらかなり悪いらしい。もしあなたがまだ高校生くらいで、将来大学で哲学を勉強したい、などという気でいたら、どうか覚悟をしてほしい。哲学に対する世間の評価は、たいそう辛いものだからだ。

これは私の偏見かもしれないが、哲学に対する世間一般の認識は、何かコムズカシイことを言っているが、実際の生活には何の役にも立たないものだ、というくらいのものなのかもしれない。親戚や知り合いに「何をやっているんですか?」と問われて、「哲学」と答えると、たいていの反応は「あぁ・・・ムズカシソウデスネ」というものだ(私の場合)。そして、そこで会話はいつも打ち切りになってしまい、じゃあ哲学ということで具体的に何をやっているのか、という話には決して発展しない。いいんですよ、慣れてますからね。実際、ムズカシイデスシ。

もちろん、「哲学は役に立つ」と哲学を擁護してくれる発言も、世間にないわけではない。真意はともかく、大学で哲学を教えてそれで食べている者としては、大変ありがたい。しかし、社会の方向性はどうも「哲学は役に立たない」という意見に大きく傾いているように思われる。哲学研究者の中にも、「哲学は役に立たない」ものだと自認している方がしばしば見受けられる。いや中には、哲学の有用性を信じ、哲学の研究と教育に使命感をもってやっておられる方もおられるのだろうが、私のように、好き勝手に哲学を勉強したり研究したりして、それによって知的に楽しめればそれでよく、哲学に対するありがちな批判に対しても、それを看過できればそれで良いと考えている方も多いのではなかろうか。

しかし、どうも昨今の事情は、哲学研究者の実際の生活にまで害を及ぼしかねない勢いである。というか、すでに実害を及ぼしている。今のご時世、哲学分野に限らず、大学院を出たところでほとんどポストにありつけず、将来のライフプランの見通しは立たない。何でもできる優秀な若手ほどアカデミアを離れていくし、このままでは学術研究としての哲学業界は衰退するばかりである。私なども、今年から同僚が定年退職でいなくなり、ひとりぼっちで地方国立大学の哲学分野を支えていかなければならない。おかげさまで、授業や研究以外の仕事が今年になってどっと増えた(すでに、大学改革のために業務が増えがちだったのだが)。教育に限っても、授業は3コマ増えたし、卒業研究指導も例年の3倍くらいの人数になった。ただでさえ二人の子育てで忙しいというのに、代理がきかないので育休もマトモにとれそうにない(そもそも大学のあり方が、教職員が育休をマトモにとれるような設計になっていない!どうなっているの!!)。哲学の教員は私一人しかいないので穴を開けるわけにもいかず、今後おそらくずっと研究休暇も取れない始末である(制度としてあっても、取れなかったら意味がない)。研究者としてはもうおしまいかもしれない。いや、すでにもうおしまいなのかもしれない。研究を諦めようかと、思わない日はない。こんな鬱屈とした毎日、もういやだ!と思いつつも、研究時間を捻出しようと日々悪あがきをしている・・・。まあ、忙しいなりに楽しんでもいるが、そんな余裕があるのも、果たしていつまでだろうか。

2. まあ、私の実存的な事情はともかくとして、およそ一般的・普遍的な問いについて考えるのが哲学である。そこで、「哲学は役に立たない」という批判に対して、哲学研究者はどう答えたらよいのだろうか。本題に返りたい。

まず、大きく分けて、次の二つの方向が考えられよう。

A. 「哲学は役に立つ」と真っ向から反論する
B. 「哲学は役に立たない」という批判を認める

Bはさらに、その後の対応でいろいろ分かれよう。たとえば、

B-1. 「哲学は役に立たない」あるいは哲学はそもそも役に立つことを目指していないことを認めた上で、別の観点から擁護する
B-2. 「哲学は役に立たない」ことを認めた上で、哲学は役に立つべきだ、と哲学の改革を訴えたり「役に立つ哲学」を実践したりする
B-3. 「哲学は役に立たない」ので、哲学することをもうやめる、あるいは自ら哲学排斥運動に乗っかる

何も批判に対して反論したり、受容したりすることだけが議論ではない。これも哲学的な議論のオーソドックスな方法だが、まず相手が採っている前提を確かめる方向がある。つまり、

C. 「哲学は役に立たない」ということで、あなたは何を理解しているのか

と問い返すことである。問いに対しては問い返せ。「あっ、メンドクサイ奴だ」、と相手に思わせたら、おそらくその時点ですでに議論は優勢であり、おそらく大抵の場合は、それで議論が終わってしまうので十分である。大体の異分野批判は難癖をつけているだけであり、マトモに相手をしていられない。しかし、そこで止まらないならば、さらに踏み込んで、「哲学は役に立たない」ということの意味の分析を求めることになる。

C-1. 「役に立つ/立たない」という言葉をどういう意味で用いているのか、概念分析を迫る
C-2. 「哲学」ということで何を理解しているのか、批判されている当体を確認する

ひょっとしたら、相手が「哲学」とは何か、その実際的な活動や歴史をあまり知らずに、ごく一部の発言や、世間的なイメージだけで批判してしまっているかもしれない。(哲学研究者だって、「哲学」とはいったい何なのか、あまりよく分かっていない。だって、あまりに広大だもの。)また、「役に立つ」ということで、お互いの理解に食い違いがあるのかもしれない。議論が運べば、「哲学」がこの点では役に立たない、この点では実は役に立つ、という共通了解が得られるかもしれない。哲学をやっている者はたいてい謙虚だし、懐疑的な思考法が染み付いて、自らが研究している学問に対してすらも懐疑的なので、何も哲学が他の分野より役に立つだとか、哲学をやっていればそれだけでメシが食えるとか、大金持ちになれるとか、あるいは科学的発明ができるとか、そういう主張をするものはほとんどいないはずだから。

ただ、哲学をすれば、別の効用が得られるということを、多くの哲学研究者は認めるだろう。それは誰にとっても成り立つものではないかもしれないが、少なくとも哲学に人生を捧げている人たちが人間の一部にはいるわけで、あるいは人生を捧げずとも興味をもって哲学を学んでいる人たちがいるわけで、その人たちにとっては何らかの意味がある学問なはずだ。

そこで、次は、「哲学が役に立つ」と言えるのかどうか、考えてみたい。私は哲学研究者だが、どちらかといえば哲学史を専門にしてきたように思うので、哲学がどのような意味で役に立つのか、過去の哲学者たちの言説をひもときながら考えてみようと思う。この投稿のように、ときには本題から脱線して、また暴走して、愚痴や自虐に走るかもしれないが、そのときは哲学の研究者はいろいろ闇を抱えている部分があるのだと思って、どうか寛大なるご容赦をいただきたい。(続く、かも)

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