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神への懺悔、究極の腹痛。

誰しも腹痛というものを経験したことがあると思う。「死ぬほど痛い」「もう耐えられない」「自分が一体なにをしたというんだ」などと一通り思ったあげく、最終的に行き着くのは神への懺悔である。過去の過ちを悔い改め、許しを乞うことで本気で腹痛が治ると思ってしまうのだ。

この場合の“神”というのはとても都合の良いもので、普段は無宗教を貫いている人のなかにも現れてくれる非常に有難い存在であり、腹痛が治ればさっさと忘れられてしまう儚い存在でもある、いわばレンタル式の神様のようなものだ。

レンタルとはいえ、無宗教の人にも信仰心を芽生えさせてしまう程の腹痛だが、家のなかで起こる場合はまだ優しいものだ、出すものを出して正露丸でも飲んで寝ていればいいのだ。
しかし中には『究極の腹痛』と呼ばれるものが存在する。この”究極”というのは文字通り“究極”という意味であり、痛みはもちろん、そのときのシチュエーションなども含まれる。
例えば、会議や授業中、車や電車での移動中など、すぐにトイレに行くことが出来ず、尚且つ密閉空間というまさに八方塞がりの状態で起こる腹痛がこの『究極の腹痛』である。

このとき、いかに早くトイレに行くかだけを考え、絶対に漏らしてたまるかと意気込み、肛門の筋肉をミリ単位で調整しながら戦うその様はもはやアスリートである。
そして人間とは素晴らしいもので、大抵の場合は漏らさずにトイレへと辿り着けるものだ。
しかし問題はここからである、そういった場合、ほとんどの確率で個室トイレは埋まっているのだ。

自分も過去に何度も経験したことがある。
耐え難きを耐え、やっとの思いで辿り着いたトイレの個室は全て埋まっており、一向に出てくる気配がない。
トイレットペーパーをガラガラと巻き取る音が聞こえてきたかと思えば、そこから5分待っても10分待っても出てこない。腹痛時の5分10分は通常時の5時間10時間であり、中で冠動脈バイパス手術でも行われていない限り説明がつかないほど長く感じるのだ。

もちろんそんな大それた手術が行われている訳などなく、とっくに限界を迎えていたおれは意を決してドアをノックしてみた。
すると中から「なに?」という返事が返ってきた。
いや、なにが「なに?」だ。早く出て来いという意味に決まっているだろう。
コイツは駄目だと思い、その隣のドアをノックしてみた。すると見事に無視をするではないか。もう無理だ、漏らすしかない、、、
と諦めたかけたそのとき、一連の流れを汲み取ってくれたのか、一番奥のトイレに入っていたおじさんが出てきてくれて九死に一生を得たのである。

こういった経験以来おれは、トイレが長いやつの事を許すことが出来なくなった。
もちろん腹痛時は仕方がない、あれは長期戦であり、むしろ応援したいとすら思う。
しかし大抵の場合は出すものを出してケツを拭いた後にスマホでも弄っているだけなのだ、おれはこのような連中を心底軽蔑する。
公共のトイレはお前たちの休憩所ではないのだ、こういった連中のせいでこれまで一体何人もの同志たちが苦しめられてきたことか、想像するだけで胸が苦しくなってしまう。

とまぁ結局なにが言いたいかというと、トイレの中でスマホを弄るな、さっさとその汚いケツを拭いて出て来いということである。

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