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続けていくこと。そして、続けていくためには…

増え続ける感染者、対応し続ける私たち

日々、感染者の数がどんどん増えていく。2000、3000、4000.予想されたことだ。メディアはオリンピックの熱狂でうめつくされていく。外は夏空。外来で見えている光景とのはてしないギャップに、めまいさえ覚える。

そういえばカミュのペストも後半は、個別の感染のすさまじい悲劇と、多くの無名の死や苦しみが平行して描かれる。そしてそれに立ち向かうリウーはこのように述べている。「際限なく続く敗北です」

それでも立ち向かうしかない。


先週のB先生との会話で、さりげなく前に進みつづける、本人はそういう言い方はあまり好まないかもしれないけど、「先駆者」であるB先生の変化にむけた姿勢を目の当たりにした。自分と比較してはいけないのかもしれないけど、地域で何十年も同じことを繰り返し、ある意味一歩も外にでていない自分からしてみれば、ダイナミックに変化をしつづけるB先生はある意味あこがれさえ覚える存在である。そして、それはおそらくセミナーに参加するであろう多くの平凡なそこここで活動する人たちにとっても同じような存在だろう。それは間違いない。

もちろんB先生のような人がいてもいい。いや、世の中を変えていくにはとっても大切な存在だ。でも、僕のような一歩も前に出ることなく、後退もせず前進もせず続けている人たちがいる必要がない、というわけではない。いや、B先生のような存在を胸に、刺激をうけつつ結果として前に進んでいなくても、後退せず、変化し続けるのもいいのではないだろうか、、、、それは僕とB先生との会話でむしろはっきりと見えてきたところだ。形は違っても、思っている所はそれほど違いはないのでは…、むしろバッターボックスに立って、投げてくるタマに向かってスイングするってことには全く違いはないんじゃないかなあ、なんてつらつら思いながらも、日々増え続ける発熱患者の対応に終われまくる。

結局もやもやしっぱなしだ。

とはいえ、前へ進もう。時間がなくなってきた。

とりあえず、週末のS先生とのアポイントを確認。S先生は、僕がいろいろなことですっかりへこんでいたときに、久しぶりに対外的な仕事を一緒にしましょう、って誘ってくれた先生だ。
 そして、その仕事を通じて、誠実な姿勢に一目を置いていた先生だ。なかなか報われることも少ない僕らの日々の仕事の中で、どうやってその力を保っていくことができているのか、前々からじっくり話を聞いてみたいと思っていたのだ。
今回は定型質問はそのままに、語り合う話題の中身について、表現を少し変えてみることにした。

「自分の仕事を表現すると」

「日々くたびれたときに、どうやって乗り越えるのか」

過去の自分は、この事についてこんなふうに書いていた。

…地域にむかう医師が目標とするのは、最後に「何」が得られるのか、最後に「どこ」にたどりつけるか、ではない。むしろ、地域にむかう医師として、最後にたどり着くべきところは、「場所」でも「実績」でもなく、必要とされている、ありふれた診療であるところの実践を「続けていくこと」である。たどり着くところが、どこであろうと、同じ場所をぐるぐる回っていようと、真っ直ぐ進んでいないような気がしても、「続ける」ことである。

本編はこのあとに当時の自分が思っていた、続けるために必要となるものが何か、つづられている。しかし、当時より年をとった自分には、今でも心のどこかにそれがあるのかどうか、はなはだ自信はない。

かっこ悪いな。

いよいよオリンピックも終わる…いろいろ言われていたけど、結局最後までやっちまったよ。

Sさんとのインタビューへ

 日曜の朝に予定されたSさんとのインタビュー。いつも日曜は早朝からいろいろ活動するのだけれど、疲れがたまっていたせいか、いつもより遅めにスタートしたのでバタバタしながら始める。東京は台風も来ていたので天気は今一つだったのけどSさんのいる北国は猛暑とのこと。昔は30度なんて珍しかったのだけど最近は結構あるそうだ。ただ、感染状況は東京とはかなり違うので緊迫感も少ないとのこと。Bさんとのインタビューでは変わりつづけていくことについて、常にポジティブな姿勢に対して刺激を受けたので、Sさんとはよりパーソナルな話をしていこうと臨んでみた。

 その中で、自分の仕事についての問いが終わると、少し前にSさんが感じた限界について話が及んだ。そしてそれをどういうふうに乗り切ったか、いや今も乗り切れていないのかもしれないけれど、今どういう対応をしているのかについて話が及んだ。もちろん、そこまで深い話にはならないし、こちらもそこまでは望んでいない。ただ、そんな感じの話題になっても、お互い、最初っから最後まで笑い声が絶えない、楽しい雰囲気が続いたインタビューになった。

 「きちんと学んでいたいんです…時間がなくて、なかなかできないんですけれど、学んでいるときが充実感を感じる瞬間ですね。」

 途中でSさんは、日々の業務に追われて、こういう自らが向上するような活動は、義務感でやらなければならないものだけに絞り切っていた最近の私にとってだいぶ耳の痛い言葉を繰り出してきた。ただ、Sさんの言っている意味は、わからないことをわからないままにしたくない、っていう、学び自体というよりはintellectual curiosityを満たす、ということだ。知らないことを知って、自分の目が見えるようになることは、確かに楽しいことだ。それは臨床のことには限らない。私たちは常に外部から新しいものを取り入れて消化吸収して刺激をうけなければ、結局変わることができないのだ。

 話の流れで、最近S先生がハマっているという家庭菜園の話で盛り上がった。ぼくも、花や、鳥や、空の色などに妙に興味があって往診先の高齢者に教えてもらっている。家庭菜園もやってみたい。釣りもしたい。旅行にも行きたい。こういうことに興味がわくのは年のせいなのかもしれないし、ただの現実逃避なのかもしれないけれど、何歳になっても新しいことに挑戦するのは素晴らしいことだ。

 そういえば、Curiosity killed the cat 好奇心は猫を殺す、というイギリスのことわざがあったことを思い出した。80年代にはそういうバンドもあったし…。

  このことわざのもともとの意味は、猫はなかなか死なないけど、いろいろなことに興味を持ちすぎて、溝にはまったり、へんなところに挟まったりして死んでしまうことがあるから、過剰な好奇心は身を滅ぼすよ、とか、いろんなことに手を出しすぎるなよ、っていう戒めなんですが、これには続きがあって

 satisfaction brought it back

というものだそうだ。いろいろ手を出しすぎると身を亡ぼすかもしれないけど、そのぶん満足が返ってくる。つまり、リスクを冒していろいろ手を出す価値は十分ある、ってことなのだそうだ。先週のBさんが言う

「変わること」 => 「学ぶこと」 => 「変わること」

のサイクル、それ自体に喜びを見出す。何かになろうとか、何かを変えようとかではなく、つねに自分に刺激を与え続けることなのだ。そして、Sさんとのダイアローグのように、「お互いに話すことで、新しい何かに触れて楽しい気持ちになる」、ということが本当の学びにつながるのではないだろうか… 

 なんてだんだん説教くさくなってきたけれど。

勉強はできるうちにしておいたほうがいいのだ。そして
しゃくだけど勉強には人参と同じくらいの栄養があるのだ。

しかし演奏:ジャネット・ジャクソンズっていったい何…

(最後のDさんのインタビューへと続きます)




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