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創作「M氏の告白」

2020年 7月 18日
 電柱、犬を散歩しているおばさんとおばさんに連れられている犬、あまり綺麗とは言えないむしろ汚い作業着のような上着を着た猫背のおじさん、スーパー・マーケットの看板、いろんな人や物が通り過ぎる。それらは左右の目の端からどんどん消え去ってゆく。まだ外は明るい。頭の中はくらげのようにフワフワと浮遊しているのに、身体的にはくらげにチクリと刺されたかのように衝撃が走っている。もしくは衝撃を欲しているのかも知れなかった。まだ明るい。啣えていたタバコをアスファルトの上へ捨てている男、自転車に乗って走る女学生、駐車場にたむろしている二匹の猫とその鳴き声、まだ次々と通り過ぎてゆく。とうとう雨が降ってきた。まだ明るいと思っていた空が暗くなってくる。それでもまだ明るい。警察官が目の前遠くに居る。自転車に乗ってパトロールだろうか。警察官とすれ違う。「君、どうしたんだ!」警察官が遠慮気味に叫ぶ。「どうした、どこへ行くの!」と再び警察官がこちらの後ろ姿を見ながら叫ぶ。走っていた。自分は走っていたのだ。走る姿を不審に思ったのだろう。警察官はただ走っている人の姿を見て何かを気にして呼び止めようとする。呼び止めようとされても走ることを止めることはなかった。警察官は自転車を一八〇度向きを変えて追ってきた。立ち並ぶ団地と団地の間の道を走っていた。追いかけてくる自転車より速く走るなんて無理だとわかっていた。団地と団地の建物の間の道を曲がり、ちょうどよいところで草の手入れをしていない庭のような広場があった。伸びすぎた草は一メートルを越えていた。その草の生い茂ったところへ飛び込んだ。飛び込んでしゃがむと良い感じで全身が隠れたような気がした。警察官も追って団地と団地の建物の間の道を曲がって来た。こちらは隠れているので警察官からは姿が見えていない。あれっ、と警察官は不思議そうな表情をしていた。いかにもマンガで描かれたような驚いた表情だった。その顔がこちらから丸見えだったので笑って吹き出しそうになったのをこらえた。警察官は1〜2秒くらい真っ直ぐを見つめたあと首を傾げ、再び自転車を一八〇度向きを変えて、元の道に戻っていった。警察官が去ったあと立ち上がり一息ついた。雨がポツポツ降っていた。そこで空を見上げてみた。遠くの方は赤い。真上は白いはずの雲が黒くなっていた。雲は白いものと決めつけで思いこんでいたが。雲は黒いこともあるんだと思った。雨が降っているから黒く見えるのだろうか。雲というのは水蒸気の集まりで、その水蒸気自体は無色だという。その水蒸気が多く重なりあってくると白く見えてくるのだそうだ。さらにどんどん重なり合ってくると黒く見えてくるのだろう。透明のアクリル板でも、何枚も重ねてしまうと曇ってきて向こう側が見えなくなるのと似ているのだろう。
 元の道に戻って再び走り始めた。団地から抜け出すと視界に入るのは電柱、犬を散歩しているおばさんとおばさんに連れられている犬、あまり綺麗とは言えないむしろ汚い作業着のような上着を着た猫背のおじさん、スーパー・マーケットの看板、啣えていたタバコをアスファルトの上へ捨てている男、自転車に乗って走る女学生、駐車場にたむろしている二匹の猫とその鳴き声、見える事物は同じ。世界はぐるぐる回っている、のか。だったらまた自転車にのった警察官がやってくるのだろうか。そんなことを考えながら走る。幸い警察官には遭遇しなかったので、叫んで呼び止められることはなかった。
 自分に求められるものがわからなかった。わからないままいろんなことに答えていた。応えていたわけではなく、答えていただけだということに気づかなかった。リーダーにはそれがわかっていた。わかっていて彼はあえて何も言ってこなかった。それを知った自分は衝撃を受けた。そして悲しくなった。こんな気持ちは初めてだった。誰にも気づかれたくなかった。動揺している自分の姿を誰にも見られたくなかった。見られてもどうという訳でもないのに見られることに躊躇いがあった。職場では冷静を装っていた訳ではなかった。しかし自分の性格上、そういう振る舞いを自ら行い、それは意図的でもなく戦略的なものでもなかった。ただ人付き合いが苦手だったり、感情が表面に出ない体質を他人に悟られるのが怖くて、それを隠すための行動がどういう訳か、冷静で寡黙な人柄を演じることだった。それによって他人のことを知らずに傷つけたり困らせたりすることがあったのかも知れない。しかし実際には他人のことなどどうでも良く、自分の保身のためでしかなかった。そしてそれらの仕草や行動が功を奏することに至らなかったし、至らないことに気づいていたのにずっとそんなことを続けていた。
 涙なんて流すのは何年ぶりだろう。再び走り始めると涙が出てきた。それと同時に雨の勢いが増してきた。すっかり周囲は暗くなってきて、自分の気持ちも昏い陰を引きずった。走る衝動が熱を持って涙を誘発し、その涙は頬をつたって落ちる。走っている身体の振動と重力によって、涙は質量を持って地球に引っ張られている。しかしその涙がしっかりとした形をもって表面化されることはなかった。雨がその涙の姿を隠していた。くらげも涙を流すのだろうか。いや、くらげが涙を流す訳はない。そうじゃない。自分はくらげになりたいと思ったのだった。でも本当に自分はくらげになりたいのだろうか。さっき警察官から逃げるために入った草むらの草になっても良いのではないか。自分の身体を隠してくれた草に。自分の身体まるごとを助けてくれたその草に。ただの草でも人の役に立つ。自分は他人の役に立つことをしたことがあっただろうか。自宅には声で呼びかけるだけで雑用をしてくれる機械が設備されている。「照明を付けて」と言えば部屋の灯りをつけてくれる。「テレビの電源を入れて」と言えばテレビの電源が付く。チャンネルまで変えてくれる。この設備を自分で稼いだ金で購入した。一生懸命に仕事をして稼いだ金で購入したのだ。
 すっかり暗くなった。月明かりが周囲を照らしていた。その明かりに助けられて走っている。自分はいつも何かに誰かに助けられて生きてばかりいる。これは生きていると言える生き方なのだろうか。こんなことを考えるのは生まれて初めてだ。生きているのではなく、生かされている。死ぬのは怖い。
 雨の線が月明かりと店から漏れてくる照明に照らされて見える。無数の筋が古いテレビの雑ノイズのように乱射したように、雨の筋が見える。雨の水滴が顔に付く。涙のつぶが頬に流れる。視界がなくなりそうになる。右腕の手首あたりで目をこする。すると視界が復活する。
 リーダーは悪い人ではなかった。むしろ尊敬出来る人であり、他のグループのリーダーよりも好感が持てた。リーダーは余所のグループのメンバーからも好かれていた。きちんと後輩の面倒をみて、しっかりとした指導をしていた。他のグループのリーダーはむやみやたらに怒鳴ったり、出来の悪い部下には嫌みを言ったり嗤ったりしているのに比して、自分のリーダーはそんな下卑たことはしない人だった。だからこその悲しみなのかも知れない。自分がいったいどうして悲しみに暮れているのかわからなくて、それを考えながら走っていた。不思議なことに走るペースは落ちなかった。普段から運動をしていた訳でもなく、体力づくりをまめにしていた訳ではなかったのに。
 しかし無意識に無理をしていたのか、それとも何か目に見えない不思議な力に身体が支配されていたのか、妖怪か悪魔か天使か、それとも自分の知識にはない力学的なものでもあったのか、身体が壊れていく感覚が全身に重くかかってきた。ここまで何メートルくらい走ったのだろうか。
 走ってなどいなかった。だらだらと他人に言われるままに責任感など一切持たずに生きてきた。一生懸命に動いていると思っていたが動いているのは周囲の人たちだった。自分はそれらの人たちの風景の一部に過ぎなかった。バキッ!何かが激しく折れる音がした。あぁ、右腕が折れている。腕の関節がおかしな方向に折れ曲がっている。バキッ!また何かが折れる音がした。今度は左腕が折れている。バキッ!今度はどこが!
 倒れていた。頭をアスファルトにぶつけていた。今日一日の出来事が頭の中で思い出される。しかし生まれてからの幼かったころのことや、思春期、少年時代、そして新入社員だったころのことが思いだそうとしても思い出せない。そもそも自分が生きていたのかさえも思い出せない。全部夢だった?
 目の前にリーダーが立っていた。そしてこちらを見ている。目を合わせられない。怖い。自分がリーダーに対して何を怯えているのかわからない。リーダーに殴られるわけでもない。叱責を受ける訳でもない。恥をかかされる訳でもない。嗤われる訳でもない。
 逃げていたということに気づいた。自分は逃げていた。逃げることからも逃げていた。あのときの警察官に捕まっていれば良かったのだ。でも自分は何も悪いことはしていないから捕まることはない。そうだ、悪いことなど何ひとつしている訳ではないんだ。でも悪いことをしてさえいなければそれで良いんだろうか。
「きみは何を見ている」
「知りません」
「きみは何もかもが見えているのに見えていない。見て見ぬ振りとは違う。見ようとしていないことを周囲に悟られないように見られるようにしている」
「難しくてよくわかりません」
「じゃあ、よく考えてみておいてください」
 リーダーの言うことがよくわからなかった。倒れている自分の身体の上を自動車や自転車やバイクが乗り越えて行った。その衝撃で背骨が折れた。そして頸の骨も折れた。息苦しくなって何も喋れなくなった。そもそも自分は何かを喋ったことがあっただろうか。リーダーがいつの間にかいなくなっている。
 もう動けないのはわかっていた。そして涙はすっかり止まっていた。その代わりに血が、自分の血が流れていた。自分の身体にも血が流れていたことがわかり、安心した。

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