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【渋谷の歴史 vol.7 「渋谷にあったアメリカ:ワシントン・ハイツの中のスーパーマーケット」】

ワシントンハイツのカミサリーが渋谷の戦後文化の原点の一部である(と思う)

実際のワシントンハイツの中のカミサリー外観。現在の代々木公園「桜の園」付近にあった

前回記事です


米軍基地内の売店:PX、BX、カミサリーとは何か?

ワシントンハイツという米軍の住宅地の中にPXとカミサリーという商業施設があった。では聞き慣れない「PX」と「カミサリーって何?ということだが、米軍の基地内にはPX、BX、NEX、カミサリーと呼ばれる商業施設がある。アメリカ軍とその家族が利用できる商業施設で、PXは日本語では「酒保」と呼ばれている。

カミサリー(Commissary)
カミサリーは、国防物資配給局(DeCA:Defense Commissary Agency)が運営する軍の基地にある食料品店。生鮮食品、加工食品、飲料、日用品などを販売しており、民間のスーパーマーケットに近い。軍関係者とその家族のみ利用できる。現在も世界各地にある。https://shop.commissaries.com/

PX / BX / NEX
PX(Post Exchange)は陸軍、BX(Base Exchange)空軍、NEX(Navy Exchange)は海軍の基地の中にある商業施設であり、衣類、食料品、雑貨、家電、電子機器など、幅広い商品を取り扱っている。軍関係者は 免税である。雑貨店的な総合スーパーGMS(General Merchandise Stores)みたいな感じである。Army & Air Force Exchange Service (AAFES)陸空軍生活品販売業務が運営しており、軍関係者であれば誰でも利用できる。(NEXは別団体が運営)こちらは、政府から供給されない日常使用、消耗、消費財を適正な価格で兵士に供給し「合理的なレクリエーションと娯楽の手段を提供すること」を目的としており、現在でも本やCDなども販売されている。
こちらも現在も世界各地にある。https://www.shopmyexchange.com/


PX、カミサリー、教会、映画館などがあった地域と現在の地図を合わせてみた

ワシントン・ハイツにはPXとカミサリーがあった。1964年当時の住宅地図を見るとPXとカミサリーは離れた場所にある。カミサリーは現在の代々木公園桜の園付近にあった。PXは現在の日本航空発始の碑付近にあった。

カミサリーの写真をカラー化したらよりリアリに感じた。(Dependents Housing 55ページから)

ワシントンハイツのカミサリーが日本のスーパーマーケットのルーツだった

このワシントン・ハイツ内のカミサリーの写真を見ると現代のスーパーマーケットとほとんど同じスタイルである。

1953年当時の紀ノ国屋。サインペインティングがかっこいい!平松由美/青山紀ノ国屋物語 : 食の戦後史を創った人 巻頭ページから

青山に紀ノ国屋というスーパーマーケットがある。日本初のスーパーマーケットと言われている。日本で初めてサラダ用の野菜を作りGHQに洗浄野菜(清潔な野菜、当時の野菜は生食に向いていなかった)と果物を納品し東京都指定の「洗浄野菜販売店」第1号となり、1949年2月に現在の青山でお店を再開した。そして1953年11月に日本で初めてセルフサービスの販売方式を取り入れたスーパーマーケットとして開店した。そこには、商品の大量陳列、冷蔵オープンケース、ショッピングカート、レジスター、クラフト紙のショッピング・バッグ、それは全てワシントン・ハイツのカミサリーの影響だった。

平松由美/青山紀ノ国屋物語 : 食の戦後史を創った人


平松由美氏が書かれた「青山紀ノ国屋物語 : 食の戦後史を創った人」に紀ノ国屋創業者の増井徳男氏の言葉が多数残されている。その中に「日本でも戦争前にはアメリカからフルーツの缶詰は何種類か輸入されていたし、うちの店でもピーチの缶詰は扱っていた。しかし、大量に山のようにしかも美しく積まれているのを見たのは生まれて初めての経験でした。"これだ"という感じでしたね。お客様が自分で歩き回って商品を選ぶ方式も、初めて見ました。”いつか日本も必ずこうなる”と、そのとき直感しましたね。」そしてその後にスーパーマーケットは日本中に広まった。
(青山紀ノ国屋物語:食の戦後史を創った人 70Pから)

GHQへ生鮮食品を納品していた増井氏はワシントン・ハイツのPXを見て衝撃を受けたとある。食料をはじめ全ての物資が不足していた戦後の日本から見たら夢の国に見えたはずである。映画やドラマの戦後の回想シーンでよく見る「ギブミーチョコレート」のチョコを山積みで売っていたのだ。衝撃的だったのは容易に想像できる。

スーパーマーケットはそれまでの日本に無いスタイルだったため、増井社長は開店前夜はお客様が来てくれるか心配で「緊張で眠れなかった」とある。しかし、開店以降、青山の紀ノ国屋へは新鮮な洗浄野菜や果物、卵を求めてワシントン・ハイツからたくさんの米兵の家族や在日アメリカ人が買い物に来て評判が高くなっていた。その後の紀ノ国屋の繁栄ぶりとブランド力は私が言うまでもない。

紀ノ国屋は日本で初めてインストアベーカリー、缶詰の100%オレンジジュースの製造販売、チーズやワインの輸入などいち早く取り入れ続けた。その中にはもちろん試行錯誤もあったとは思うが、日本にないものをいち早く取り入れ続けたスタイルは商売人として見習うべきことが沢山ある。

紀ノ国屋の近くにお住まいの方が「紀ノ国屋のレタスが一番うまい」とおっしゃっていたのはこんな長い歴史が関係してたのでだ。

では、「合理的なレクリエーションと娯楽の手段を提供していた」PXでは他に何を売ってたんだろう?と疑問が浮かんできた。

つづく

参考サイト:
Made in Occupied Japan

公益財団法人 港区スポーツふれあい文化健康財団 港区探訪 第5回 いつの時代も、流行の最先端は港区から

出典:
Dependents Housing : 商工省工芸指導所 編 / 技術資料刊行会 
平松由美/青山紀ノ国屋物語 : 食の戦後史を創った人 / 駸々堂出版 1989


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