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【渋谷の歴史 vol.3 レコードと恋文横丁~道玄坂下三角地帯 その①】

前々回、渋谷の歴史「宇田川町には刑務所があった 」で色々と渋谷の歴史を調べているうちに疑問が湧いてきた・・・渋谷で最初のレコード屋、中古盤屋、輸入盤屋はどこなのか?という疑問から始まりそこから色々調べてみるといろんな「Missing Link」が繋がってきた。

戦中から戦後の渋谷
渋谷~青山は第2次世界大戦の戦争末期の1945年5月25日に「山の手大空襲」によって壊滅的な被害を受けた。当時青山に住んでいた方に直接お話を聞いたことがあるが、表参道の交差点から国会議事堂や渋谷郵便局のビルが見えたそうだ。それくらい焼き尽くされた。当時の話は壮絶を極めるが「表参道が燃えた日 山の手大空襲の体験記」に詳しくあるので興味がある人は読んでほしい。*表参道の山陽堂書店にて定価で販売されています。山陽堂書店 

そして昭和20年(1945年)戦後すぐに日本は進駐軍に占領され、その年の9月には陸軍の練兵場だった現代々木公園をアメリカ軍に接収され、兵士とその家族の住宅街「ワシントン・ハイツ」とした。(この「渋谷にあったアメリカ」ワシントン・ハイツに関しては今後詳しく紹介します)

渋谷駅前も空襲で焼き尽くされ、渋谷駅前の道玄坂下交差点付近、駅前、宇田川町の一部、周辺は戦後すぐに闇市となった。

戦争末期の1945年5月25日の青山〜渋谷を襲った「山の手大空襲」でほぼ燃えつきてしまい、東急本店通りと道玄坂と道玄坂小路を結ぶ「三角地帯」周辺にヤミ市ができて、いろいろな店が集まった。そのエリアだけで400軒ものヤミ市が密集していた。 参照: 松平誠/東京のヤミ市 から引用

渋谷駅前では戦後すぐの昭和21年(1946年)に渋谷事件が発生、警察と暴力団の連合軍(!)に対し、戦勝国である華僑や台湾人のグループとの間で銃撃戦が起きたそうで、このことからも台湾人と渋谷の関係性が見て取れる。この一体は闇市で(朝鮮や中国、台湾など戦勝国の人達のエリアなど)無法地帯で警察も入れないようなエリアがあった、と当時を知る方に聞いたことがある。
参照: 渋谷事件 - Wikipedia

その後、渋谷事件を経て闇市から復興マーケットとして商店が集まる街となった。露店商のエリアは整備されて「道玄坂百貨市」や「すずらん横丁」などの商店街的なエリアとなった。


出典: Tokyo Joe (film) - Wikipedia


この一帯の映像がハンフリー・ボガート主演で1949年に公開された映画「トーキョー・ジョー」にある

ハンフリー・ボガートが主演した映画「TOKYO JOE」 (1949年)のワンシーンにボガートが露天が出ている道玄坂を歩くシーンがあり、「道玄坂百貨街」の看板が映り込んでいる。(映画では反転されている)道玄坂沿いにも露天が相当数出ていて、かなりの人流があって繁盛ぶりがわかる。

日本最古のレコ屋の画像?
その途中に屋台の中古レコード屋風の露天が出てくる。(別撮りされた感じもするが)傷だらけに見える明らかに使い古したレコードが壁に飾られてて、「桝田楽器店」「新古品」「蓄音機」などの文字が見え、レコードと蓄音機が一緒に売られているシーンが一瞬映っている。たぶん中古レコード店としては最古の映像ではないだろうか。(屋台の中古レコード屋は手軽に始められる商売として昭和11年に出された指南書に記述あり)

その後のシーンでボガートが捨てたタバコに群がる人達が映る屈辱的なシーンになり、敗戦後の占領下の状況が想像できる。映像ではその奥に「大盛堂書店」「西村フルーツパーラー」の看板が見える。第2次世界大戦後4-5年後の道玄坂下交差点の映像である。
https://youtu.be/sTCRoX0wDjk
0:55くらいから 

日本最古のレコ屋の画像?
道玄坂下交差点


道玄坂百貨街の看板が見える。当時の合成画像らしい

*実際にはハンフリー・ボガートは来日せずに合成の映像だそうだ。元画像もYoutubeで見ることができる。オリジナルの画像ではなぜか画像が反転していたため修正した。画像中央奥に「道玄坂百貨市」の看板が見える。


渋谷区火災保険特殊地図 索 引 道玄坂方面図・渋谷駅付近図・宮益坂方面 日本火保図発行(1949) 

それで当時の住宅地図などを調べてみた。1949年の火災保険特殊地図には現在は109やヤマダ電機、プライム(ユニクロ)がある道玄坂下交差点から道玄坂小道の三角地帯。この住宅地図を見ると「古書」「古衣」「古物」「古着」などの屋号を持たないような店や露天の名前が多く存在していて闇市の風情が残るカオス状態だったことが推測される。

「恋文横丁」という横丁が渋谷にあった
その後、もとは「道玄坂百貨街」という商店街の奥のほうの横丁(すずらん横丁)だったのですが、ここを舞台にした「恋文」という小説と映画が人気になったため、横丁には「恋文横丁」という名前がつきました。」とある。
参照: 恋文横丁 石本行政書士事務所 


渋谷区道玄坂方面図 25 / 栄通一丁目・円山町 ; 1955年5月作図・58年5月修正 / 日本火保図 (火災保険特殊地図)

9年後の、同三角地帯付近の火災保険特殊地図。1958年の地図には「恋文横丁」「道玄坂百貨街」「メリケン横丁」の記載がある。

左 出典: 映画「恋文」
出典: 恋文横丁 石本行政書士事務所 

 出典: 恋文横丁 石本行政書士事務所 

道玄坂下から道玄坂小路の三角地帯、現在の109とプライムがある場所に「すずらん横丁」という横丁が存在していた。1953年に映画「恋文」が公開されこれがきっかけで「恋文横丁」と呼ばれるようになった。

この場所(ヤマダ電機並び)に現在は記念碑が残っている。元々この地にあった美美薬店の壁に掲げてあった看板と同じ文言がこの記念碑にも書いてあった。「恋文横丁此処にありき  これより入った奥に、小さな三十六の店があった。 戦後の混乱、物質の不足、 それに係争と云う重荷まで背負い、彼等の足どりは重く乱れがちだった・・・・しかし、彼等は希望と繁栄と、ロマンを求め、 その小路をと「恋文横丁」と名づけた・・・・・文・貴・美美薬店 店主 昭和54年5月」とある。美美薬店が無くなるまでは看板がありずっと気にはなっていた。

1990年前後にはまだ恋文横丁の面影があり、美美薬店がまだあったころには文化村通り(東急本店通り)からプライムビルの中に抜ける小路があった。当時、プライムビルには渋谷で初めてのラーメンテーマパーク『ラーメン道場』があり、プライムビルへの抜け道としてよく利用していた。その小路には「レンカ」という洋食店があった。プライムのラーメン道場には「桂花ラーメン」が都内で初出店し、当時関東ではかなり珍しかった豚骨ラーメンと無料のプーアル茶が嬉しくよく通ったものだ。現在はセンター街で営業している。


出典: NOSTAGRAPH (ノスタグラフ) 恋文横丁(渋谷)

出典: NOSTAGRAPH (ノスタグラフ) 恋文横丁(渋谷)


ヤマダ電機横に佇むステンレス製 記念碑


書籍化もされている。丹羽文雄 恋文 朝日新聞社 昭和28年

書籍化もされている。丹羽文雄 恋文 朝日新聞社 昭和28年
映画「恋文」は1953年2月から4月まで朝日新聞の夕刊に連載された丹羽文雄の「恋文」が原作である。

映画自体は1953年の暮に公開された。日本映画史を代表する大女優・田中絹代の記念すべき第一回監督作品であり、当時脚本賞も受賞していることから話題作であったそうだ。実際に代書屋さんは菅谷篤二さんという実在した方であり、この映画公開後にはちょっとした有名人になったようで、当時の雑誌にインタビュー記事も多くある。菅谷さんのインタビュー記事が雑誌週刊朝日の1965年4月23日号に掲載されており、当時の恋文横丁の雰囲気を伝えている。今で言う聖地巡礼的な客も渋谷にかなり集まって、「一時は観光バスが来るほど」の観光スポット的な場所になっていたとの記述がある。


代筆屋の菅谷篤二さんのインタビュー記事 週刊朝日 昭和40年4月23日号


出典: 恋文 (1953年の映画) - Wikipedia

出典::田中絹代監督,森雅之 , 久我美子 出演,原作  丹羽文雄, 1953年 新東宝,2022年Happinet 発売(DVD)

映画「恋文」の内容(DVDの解説より)
真弓礼吉には入隊から狂気の戦場を経た終戦後の今日まで、彼の青春の全てを支えてきたひとつの秘密があった。 それは最愛の人・久保田道子。 彼女は結婚する前日に礼吉へある手紙を書き、 礼吉はそれを受け取って以来、道子には逢えていない。 風の便りに彼女の夫は戦死したとも聞く。 戦地から帰った礼吉は、荒れ果てた自身の心を道子によって慰めようとす る。 道子が東京で暮らしていると聞き、上京して弟・洋のアパートへ転がり込むのだった。 渋谷で戦友の山路と再会した礼吉は、彼の恋文代筆業を手伝うことになる。それは外国兵を恋人に持つ女性たちの為に、外国語で 恋文を書く仕事だった。様々な男女の事情を見ていく日々を過ごす中であ る日、山路が話す客の声をカーテン越しに聞いた礼吉は驚く。その声が紛れもなく道子だと確信した礼吉は、店を出た女性の跡を追うのだった。しかし同時に、道子の清純無垢な姿を思い抱いていた礼吉の心は・・・。
日本映画史を代表する大女優・田中絹代の記念すべき第一回監督作品。溝口健二と組んで 「西鶴一代女」「雨月物語」が世界的な評価を得た彼女が、演出を学ぶために成瀬巳喜男の元で「あにいもうと」 の助監督を務め撮影に挑んだ。 戦後の渋谷恋文横丁を舞台に過酷な時代を生きた女性たちを描き、男女の感情の変化を冷静に捉えた眼差しが光る作品。さまざまな俳優、演出家たちが制作に協力してカメオ出演もしている。

出典::田中絹代監督,森雅之 , 久我美子 出演,原作  丹羽文雄, 1953年 新東宝,2022年Happinet 発売(DVD)

映画は時代を映す鏡と言われるが、終戦から7年経過した昭和27年頃の渋谷の駅周辺の映像は非常に貴重だ。将来これがカラー化されたら面白いだろう。主人公が道子を追いかけるシーンは井の頭線の改札口とホームだそうだ。今では考えられない風景である。
※「山一證券の投資信託」の看板が2回も映されているので当時のタイアップなのだろうが、当時から投資信託があったんだな、と勉強になった。

映画の冒頭で派手な化粧をした若い女性が代書屋に屯して喧嘩しているシーンがある。所謂米兵と交際していた女性達が代書屋に帰国した彼氏の米兵あてに英語の手紙を代筆する代筆屋が出てくる。これが「恋文」を代筆する代書屋の主人公になり映画のタイトルの由来になるのだが、映画同様に当時も実際に沢山の若い女性が集まってきたようだ。そして、その場所に「109」が建ち、その数十年後にも若い派手な女性「ギャル」の聖地になっているのは非常に興味深い。

主人公の礼吉は戦争によって人生を狂わせられた語学堪能なエリート。弟の洋の仕事は、現代で言うところの古本の背取りで稼ぐ「セドラー」。古書の転売屋である。当時から背取りをして稼ぐ人が多かったのであろうか。こちらも何十年後かに中古レコード屋で背取りする人たちが渋谷に集まってきたのも非常に興味深いものだ。

映画の中のすずらん横丁の古書店で洋が古書や洋雑誌などを仕入れるシーンでは、本人確認も古物台帳への記載もない。映画は昭和28年作だが、昭和24年に古物営業法は施行されているので厳密に言うと法律違反である(笑)

その後1950年代後半からモダンジャズブームが日本国内で巻き起こる。渋谷では道玄坂~百軒店~道玄坂下三角地帯のエリアを中心にLPレコードの普及と共に渋谷サブカルチャーが芽生える。ヤマハ渋谷店の開店、そしてジャズ喫茶が続々と開店していく。

次回に続く。

敬称略

参考サイト
東京些末観光 
東京些末観光 50年代の三角地帯





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