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ブックカバーチャレンジを機に本について考えてみた

ブックカバーチャレンジのお鉢が回ってきた。ステイホームやテレワークで対面でのコミュニケーションの機会が減ったからだろう。このところ、SNSを通じて、〇〇チャレンジや○○バトンといったものがよく行われているようだ。これについては賛否両論があると聞くが、ブックカバーチャレンジを機に、本について考えてみた。

さて1冊目は何にしようかな?ブックカバーチャレンジの指名を受けて、まず書棚を見た。読書家とまではいかないが、子供の頃からわりと本は読む方で、いまも仕事部屋の書棚にはぎっしり本が詰まっている。もっともそのほとんどは仕事に関係するものばかりだ。昨年引越しする際、そうでないジャンルの本は、思い入れのある本は除き、全て処分してしまった。そのため、やや遊びがないというか、スポーツに関心がない人からするとつまらない書棚かもしれない。書棚というのは、人間がそうであるように、振り幅が大きい方が面白い。

実は昨年の引っ越しの際、ちらっと、この機会に本という本は全部処分することも頭をよぎった。たぶん2度と手に取らないまま、”インテリア”で終わる本も少なくないからだ。でもそれはできなかった。幼少期のアルバムを捨てられないように、本にはそれぞれ思い出があるからだ。その本を手に取った理由、その時の気持ちの在り方、感銘を受けたところ…背表紙を見るだけで、蘇ってくる。大げさかもしれないが、本は1度読むと、そこに心が宿る。その証しを簡単に手放すことはできなかった。という性分なので、実家にある2つの書棚には小学時代に買ってもらった本も並んでいる。

私にとっては師であり、友である本がいま、厳しい状況に置かれている。出版不況と言われて久しい。23年前に中央線沿線に越してきた当時は、最寄り駅周辺に何軒も本屋があった。現在は1軒だけである。取材で訪れる街に本屋がないのも珍しいことではなくなってしまった。本が売れなければ、店を閉めるしかないのだろうが、個人的にはとても寂しく感じている。

若い人もあまり本を読まない傾向にあるそうだ。読むのは簡潔にまとめられたネットの情報記事が中心で、長い文章を腰を据えて読むことはしない…ようである。そのためか、全般的に読解力が落ちている、という話も耳にする。このことも関係しているのか、高校、大学の野球指導者によると、最近の選手は効率を重視し、最短距離の方法を選びたがるようだ。指導者は、それは悪いことではないとしながらも、「技術の習得に近道はなく、本当は遠回りしないと身に付かないと思うんですけどね」とこぼす。

本はもしかすると、効率とかスピードを求める人にとっては真反対の位置にあるものかもしれない。1冊読むには時間もかかる。コンパクトに知識を得るだけなら、検索したほうが早いし、小説にしても、期待外れのものと出くわすこともある。また、読んだからといって、すぐに役に立つとは限らない。電子機器の進歩で時間の流れが早くなる一方の中、求められるのはすぐに効く西洋薬のようなものであり、本は必ずしもそうではない。今回のブックカバーチャレンジで書棚を見回した時も、一部の本を除いては、この本からはこういう影響を受けたな、という具体的なことは思い浮かばなかった。

しかし本とはそういうものだと思う。影響はあくまでも抽象的であり、抽象的なまま血となり肉となる。少なくとも私にとっては、書棚にある本、その1冊1冊が、内面の細胞になっているのは間違いない。

かく言いながらも、このところまともに本を読んでいない。原稿作業に必要な資料を読み込んだり、取材対象のネット記事を見るのが、活字との接点になっている。振り返ると、ライターになったばかりの20年ほど前は、今ほどネット情報が豊富ではなく、調べものをする時は図書館に行ったり、野球博物館まで足を運んだ。それがいつの間にかネットの恩恵を甘受し、効率よく仕事をしてしまっている。締め切りがある以上、効率を求めるのは仕方ないが、自分もまた最短距離をいってしまっていることに気付く。

たまには新しい本の仲間と遠回りしてみなよ―。久しぶりにじっくり向き合った書棚の本たちからそう言われた気がした。

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