プレー中の不慮の事故で亡くなった野球選手のこと

ずっと書きたいと思っていた選手がいる。

いや、書かなければと思っていた選手がいる。

元早稲田大学野球部の東門明さんのことである。

この名前にピンときた人はかなり古くからの野球ファンか、大学野球の関係者に限られるだろう。東門さんは早稲田大学2年時(1972年)に出場した第1回日米大学野球の試合中の事故が原因で亡くなった。前途洋々の未来が待っていたはずの東門さんは19歳の若さで人生の幕を閉じた。名門・早稲田で2年春からレギュラーになり、ただ1人の2年生として大学日本代表入り。もしこの事故がなければ、野球界に名を残していたに違いない。

東門さんの名を初めて知ったのは小学5年の時。東門さんが亡くなった翌年だった。行きつけの理髪店でいつものようにスポーツ刈りにしてもらっていると、ラジオから「ここでリスナーからのお便りを紹介しましょう」という声が聞こえてきた。そして番組のパーソナリティが「東門さんの思い出」と題した女性からの手紙を読み始めた。その女性が東門さんとどんなつながりの方は覚えていないが、その内容で東門さんがプレー中の事故が原因で亡くなられたと知った。

東門さんは第1回日米大学野球の2回戦、7回に代打で出場するとヒットを放って出塁する。次打者の打球はセカンドに飛び、米国チームは4-6-3のダブルプレーを狙った。二塁手から遊撃手にボールが渡り、遊撃手は1塁へ送球…だがこの瞬間、あってはならない悲劇が起きた。遊撃手の送球がゲッツーを阻止しようとした東門さんの頭部に、至近距離で直撃してしまったのだ。

すぐに病院に搬送されたが、5日後に息を引き取った。東門さんがこの時に付けていた背番号13は日米大学野球日本代表チームの永久欠番となり、早稲田で着ていたユニフォームの背にあった「9」も大学野球部の永久欠番になった。過去記事によると東門さんはヘルメットをかぶっていたようだが(この時代はまだ耳カバーなしが一般的だった)、当時は走者になるとかぶらない選手も多かったことから、東門さんの事故をきっかけに走者もヘルメット着用が義務付けられた。

有望な選手が若くして試合中の事故が原因でなくなる…ショッキングな内容とともに、東門さんの名が小学5年の私の脳裏に刻まれた。

高校に入学し、野球部に入ると、1つの偶然が待っていた。恩師が前任の高校で監督をしていた時、東門さんは教え子だったのだ。めぐり合わせに驚いた。恩師にとっては自慢の教え子だったのだろう。事あるごとに東門さんの話を聞いた。東門さんは文武両道の選手だった。高校野球に没頭しながらも、一般入試で早稲田大学に合格。人間性においても非の打ちどころがなかったという。小学5年の時から焼きつけていた東門さんの名が、自分の中でより濃いものになった。

ライターになってから、大学日本代表チームで東門さんと一緒だった方に当時の話をうかがったことがある。1人は横浜、大洋で活躍し、監督も務めた山下大輔さん。もう1人は元立教大学監督の坂口雅久さんだ。山下さんは慶應義塾大学で、坂口さんは立教大学。ともに東門さんの1学年上にあたる。東京六大学リーグでは東門さんがいた早稲田としのぎを削った。

本題の取材が終わり、私が東門さんのことを訊ねると、お二人とも姿勢を正し、神妙な面持ちになった。山下さんも坂口さんも多くは語らなかったが、東門さんがいい選手だったということは十分に伝わってきた。それがわかっただけで満足だった。

ライターになって数年経った頃、いきなり恩師から連絡があった。聞けば書かせてもらっていた野球指導者向けの専門誌で私の名前を見つけ、編集部から携帯の番号を教えてもらったのだという。こんなことをしてくれる恩師はなかなかいない。つくづくいい恩師だと思う。いや、そもそもライターになった時点で、その報告をしなければいけなかった。ライターが自分の職業になる10年前、私は当時石川の高校の監督をしていた恩師のもとを訪れ、野球のこと、スポーツのことを書きたいと、思いを打ち明けていた。恩師は理解を示してくれたものの、生活の現実を知っている者として「俺だったら、上原がいまいる会社で頑張るな」と諭してくれた。奥様からは「上原君、早く結婚した方がいいわよ」と言われた。それでも「持っていくか」と懇意にしている記者が書いた本と、恩師が綴ったものを持たせてくれた。

結局、物書きになりたいと思ってから、ライターの名刺を作るまで10年かかった。ライターになってからも、これ1本でやっていけるか、しばらくは強い自信が持てなかった。恩師にすぐに連絡すぐにできなかったのはそのためだ。実績を作ってから…と思っている間に時間ばかりが過ぎてしまった。

ひとしきり恩師と話した後、こう言われた。

「東門のことを書いてくれないかな」

私は「わかりました」と返事はしたものの、約束を果たせないまま、20年近く過ぎてしまった。ずっと引っかかっていた。編集者に提案したこともあったが、結果的に書けなかった。ようやくnoteというフリーに書ける場で書かせてもらったが、ほんの小さな1歩を踏み出したに過ぎない。「私事」の文章としてではなく、取材を通した「作品」として東門明さんという方をいまの若い世代にも伝えなければ、と思っている。

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