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前略,13

新規のプロジェクトのクライアントとの何度目かの打ち合わせの後、簡単な飲み会を設けることになった。プロジェクトのスケジュールにも見通しがついたし、課題の克服への目処も立ったところだったから、タイミングとしてはたしかに申し分なかった。

そういう飲み会は好きではないが、残念ながらと言うべきか、私はこの案件のチームリーダーにアサインされていたから、さすがに上司や後輩に押し付けて自分だけ参加しないわけにはいかなかった。

飲み会の提案者である私の上司は、陽の傾きはじめた十六時ごろから、やたらと作業の進捗を聞きに来るようになった。まだかまだかと私と後輩の周りをうろちょろするので、気が散って仕方がなかった。

パソコンのディスプレイの時刻が、十六時五十九分から十七時ちょうどに変わった瞬間、後輩が勢いよくデスクから立ち上がった。よっしゃ、終わりましたよ三崎さん、と満面の達成感を発散させてデスクの整頓をはじめている。

向こうの席にいた上司がそれを聞きつけて、うれしそうにこちらに向かってきた。もう少しタスクを進めておきたかったが、潔く諦めることにして、私も片付けにとりかかった。

経費で通らなくても自腹で出してやる、と気前の良いことをいつも通り上司が言うので、私たちは三人でタクシーに乗った。

三十分ほどで、恵比寿ガーデンプレイスに着いた。普段は車に乗ることがなかったが、運転手さんが言う限りでは、やはり金曜日の五時を過ぎると道は一気に混み始めるという。

クライアントとの飲み会には、ガーデンプレイスから少し離れたところにある個室のダイニングバーを予約していた。ウォーミングアップと称して、上司は当然のようにガーデンプレイスに歩みを進め、イタリアンバルに入った。

この後にクライアントとの飲み会が控えているわけだから、ビールとかサングリアにしておけばよさそうなもの、いつものことながら、意気揚々と、今日の場合はスパークリングワイン、辛口のスプマンテのボトルをオーダーした。前回の別のクライアントとの飲み会のウォーミングアップと比べると、はるかに穏やかな滑り出しだった。

その時は富山県のベンチャー企業がクライアントで、私たちは三人で富山県に出張していた。初日、顔合わせを兼ねたミーティングの後、私たちは一旦ホテルに戻り、先方が宴席を用意してくれているという店がホテルから歩いて十分もかからない場所だとわかると、上司は早速私と後輩を連れて上層階のホテルバーに向かった。

天井まであるガラス窓の向こうに、夕陽に照らされた富山の市街地が彼方に雄壮と横たわっている立山連邦まで続いている光景を眺めながら、上司は感嘆のため息を漏らした。それはたしかに思わず息を呑むほどの荘厳な光景だった。

地酒の四号瓶をオーダーし、敵を知るにはまずその土地の水を知らねばならんからな、とうれしそうにおしぼりで手を拭く上司は、クライアントは敵じゃないっすよ、と後輩が突っ込むのも気にせず、俺が前に富山に来たのはもう二十年以上前だ、などとつらつらと語り、三笑楽という瓶が富山のアーティストが制作したという手吹きガラスのぐい呑みグラスとともに運ばれてくると、率先して私たちに酒を注いでくれた。

名前からして幸先が良いな、などとうれしげに喉を鳴らす上司に、私たちもついついつられてしまい、わずか十五分かそこらのうちに四号瓶は空になってしまった。あの時は私も後輩も、あまりない出張と、思わず目を奪われてしまうほど鮮やかに夕日に照らされた富山の市街地と、その彼方に聳える立山連邦の光景ですっかり舞い上がっていたのだろうと思う。

しかし、時刻はまだ夕方の十七時にもなっておらず、まだ飲み会のはじまりまでは二時間以上あった。

で、その素晴らしい眺めと上等なバーのインテリア、そして旨い酒に美しいガラスのぐい呑み。これらに誰よりも浮かれてしまったのは上司らしかった。すっかり空になった瓶を見て、ウエイターを呼んだかと思うと、今度は響のボトルをオーダーしてしまったのだ。

私も後輩も、上司がさも平然とした態度で響のボトルと、それを割るためのソーダだとかのやりとりをウエイターと交わしているものだから、割って入って止めるチャンスを完全に逃してしまったのだ。

窓の外の美しい眺めと、楽しげに店内を見回している上司と見比べていると、当の上司は、まだ二時間もあるんだから、まあ、ゆっくりやろうぜ、と自慢の腕時計を外してテーブルの端に置いた。

結局、上等な国産ウイスキーのボトルは二時間では空にはならなかったが、私たちはなかなかに酔いはじめてしまった。

ホテルを出て、薄闇の見慣れない土地に流れる蒸し暑い夜気の中を歩きはじめてようやく、これはまずいと思ったのか、上司は途端に心配そうに私と後輩の体調確認をしてきた。

が、結果としては、先方もどこぞで零次会をしてきたらしく、私たちを自分たちと同様の無類の酒好きと認めたのか、終始上司もクライアントも上機嫌だった。つくづく上司の強運には驚かされた。

そんな前回の経験をどう踏まえたのか、今回はスプマンテを空にすると、どうする、まだ飲めるか、と上司は殊勝なことを言うのだった。

そんなふうに聞かれると、かえってもう一本ボトルを頼みたくもなったが、さすがにあと一時間もしないうちに店を出なければ間に合いそうもなかったし、今回のクライアントって、この前の富山の人たちと比べるとあんまり酒好きじゃなさそうですよね、と後輩がもっともらしい懸念を示したこともあって、折衷案として、白ワインのデキャンタで落ち着いた。

案の定、余裕を持って二十分前には予約していたダイニングバーに入ったのだが、先方はといえば、プロジェクトの責任者から新人まで、もうすでにテーブルに着いて待っていた。上司はつい十分ほど前までワインを水のように飲んでいたことを微塵もうかがわせない態度で挨拶をはじめるものだから、私たちもその演技に付き合うことになった。

乾杯してからも、普段のミーティングのときの延長めいた話がしばらく続いた、これはさすがの上司もいつもの調子を出せないのでは、という気がよぎったが、蓋を開けてみればそれは杞憂だった。

結局、クライアントも酒が嫌いではなかったらしい。いつのまにかすっかり意気投合し、まだ仕事を残してきているという先方の若手二人と、明日の朝はどうしても外せない大切な用があるという後輩を除いた四人で、今度は麻布十番の焼鳥屋に移動した。

立地のわりに賑やかな活気のある店で、酔うと次第に大きくなる上司の声もほとんど目立たず、あれやこれやで焼酎の四号瓶を結局三本も空にしてしまった。

それでようやく店を出たのは、もう終電もなくなりかけている時間だった。せめて新宿までは電車で戻りたかった。それで、あわよくばもう一軒行こうとしている上司とクライアントの二人をタクシーに乗せて、地下鉄に急いだ。

都営新宿線を降りて地上に上がると、もう確実に西武新宿線の終電には間に合わなかった。明日は休日出勤しないでいいというのが、不幸中の幸いだった。唯一の問題は、タクシーで帰るか、それともどこかで時間を潰すか、ということだった。しかし、時間を潰すといっても一体どこで?

考えながら歩いているうちに、気づけば自然と足はエジンバラに向かっていた。

夜風に当たっていると少しずつ酔いはましになってきていたが、滑稽な気がした。

しかし、うっかりしていた。店の前に来たところで、看板も店内も真っ暗だった。

エジンバラは二十四時間営業ではなくなっていたのだった。
それを私は誰に言われたのだったか。思い出そうと、その場に佇んだまましんと静まりかえったエジンバラを眺めていると、声をかけられた。

「もしかして、ナギサくん?」
はっとして振り返ると、すぐそこにパンツスーツ姿の女性が立っていた。向こうの建物のネオンに照らされて、紺色のスーツがよく似合うその女性が、驚きの表情で私をまっすぐに見ていた。

とっさに言葉が出なかった。数秒お互いに絶句したまま向かい合い、それから彼女が微笑を浮かべるのを見て、ようやく私は口を開くことができた。
「久しぶりだね、みどり」

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