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タイパといいたくもなる社会

タイパという言葉が若者のあいだで流行っているらしい。費やした時間に対してどれだけの効用が得られるか、タイムパフォーマンスの略ということだ。

直接耳にしたのではなく、こんな言葉が流行るなんて世も末だという批判的言論を介して知るにいたった。そう嘆きたくなる気持ちも分かるが、一方で、こうした言葉を発する若者の気持ちを浅薄だと切って捨てる言論のほうが、むしろ浅はかなのではないかという気持ちがある。

コスパではなくタイパという言葉が台頭してきた背景には、インターネット上にいくらでも無料のコンテンツが溢れる現代において、娯楽を得るために費やすものがお金ではなく、それを消費するための時間になったということがある。なんらかの経験に対してお金を惜しむどころか、それを経験している時間そのものを惜しむようになったとき、「経験する」ということの意味が徹底的に毀損されるという批判は分からないでもない。

だけど、若者(に限らず我々一般)の置かれた状況を考えると、そんな上からの批判をする気にはなれない。インターネット上に配置された無数のコンテンツは、もちろん純粋に彼らの経験を思って無料開放されたものもあるにせよ、その圧倒的多数はむしろ、彼ら若者の時間を奪うための餌として仕掛けられている。自分たちの作ったプラットフォームに長く滞在した人々の時間をお金に換金する広告ビジネスの戦線はますます拡大し、企業は若者の「注意」と「時間」を奪い合うアテンションエコノミーに明け暮れている。

若者は、コンテンツやプラットフォームを「無料で提供してもらっている」のではなく、それらを餌として自分たちの「時間が奪われている」ことに肌感覚で気づいているのだろう。お金を支払うのではなく、時間を奪われつつもその中で良質の体験を探し求めることを余儀なくされた若者が、タイパといいたくなる気持ちはよく分かる。僕らはそれを批判するのではなく、その言葉の奥にある悲しみに想いを馳せないといけないのではないか。


問題はもう少し複雑で、現代のプラットフォームは一方的にコンテンツを配信するのでなく、消費者がコンテンツを配信する供給者でもあるという循環を維持するものとなっている。こうしたプラットフォームの上で若者は、自分の時間を奪われるだけでなく、同時に他者の時間を奪う側にまわる共犯者へと仕立てあげられる。

良品を誰かに届けるための手段として人の注意を引くのではく、人の注意を引くことそれ自体によって自己顕示欲を満たされ、金銭的インセンティブが与えられるよう設計されたプラットフォームの上では、それに時間を費やす価値のないような刺激のための刺激、低品質のコンテンツが量産され、しかもそれによって落ち着いた雰囲気のある味わいぶかい情報は埋もれてしまう。タイパといいたくもなる社会を僕らは生きている。


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