センス・オブ・ワンダー、原文と二つの訳の比較対照
松葉舎ゼミ「科学のセンス・オブ・ワンダー」の下準備として、レイチェル・カーソン『センス・オブ・ワンダー』の原文と二つの訳(森田真生訳、上遠恵子訳)を部分的に比較対照していきました。知ること、感じることについて、カーソンの思想がよくあらわれている部分を抜き出しています。末尾には、翻訳書を読むこと、古典を読み継ぎ、書き継ぐことに関するぼくの考えも付しています。
森田真生訳:
冒険は穏やかな日のときもあれば嵐の日のときもあり、昼のこともあれば夜のこともあります。教えることより、一緒に楽しむことが、私たちの冒険の基本です。
上遠恵子訳:
わたしたちは、嵐の日も、おだやかな日も、夜も昼も探求にでかけていきます。それは、なにかを教えるためにではなく、いっしょに楽しむためなのです。
上遠訳メモ:
原文では、教えるよりは楽しむことのほうが「基本である/is based on」というに留まっていて「教えるためにではなく」と否定されているわけではない。
森田真生訳:
どれだけくり返し知識を暗記しようとしたとしても、友だちのようにこうして二人で一緒に森の探索に出かけていく以上に、植物の名前を心に刻みつけることは、できなかっただろうと思います。
上遠恵子訳:
いろいろな生きものの名前をしっかり心にきざみこむということにかけては、友だち同士で森へ探索にでかけ、発見のよろこびに胸をときめかせることほどいい方法はない、とわたしは確信しています。
上遠訳メモ:
原文では、生き物の名前を心に刻むにあたって「どれだけドリルをこなしたとしても/no amount of drill」森の探索にはかなわないというに留まっている。「探検……ほどいい方法はない」と、あらゆる手段の中でそれがベストだといわれているわけではない。
森田真生訳:
名前を教えようとしたことなど一度もないのに、いったいどうして覚えたのかわかりません。
上遠恵子訳:
いったいいつのまにそのような名前を覚えたのか、わたしにはまったくわかりません。一度も彼に教えたことはなかったのですから。
上遠訳メモ:
原文では「教え〈ようとした〉ことはない/I had not 〈tried to〉 teach」とあり、日々の会話のなかで「結果として何かを教えていた」可能性は否定していない。
森田真生訳:
親はしばしば、自分の無力さを感じるものです。なにしろ、子どもの繊細な心はこんなにも好奇心にあふれているというのに、自然は複雑で、あまりにもたくさんの未知の生き物たちがいて、そのすべてを単純な秩序や知識にまとめることなど、とうていできそうにないからです。思わず自虐的な気持ちになって、こんな風に叫びたくもなるでしょう。
「いったいどうやってこの子に自然を教えたらいいの——鳥を見分けることすら、自分にはできないというのに!」
上遠恵子訳:
多くの親は、熱心で繊細な子どもの好奇心にふれるたびに、さまざまな生きものたちが住む複雑な自然界について自分が何も知らないことに気がつき、しばしば、どうしてよいかわからなくなります。そして、
「自分の子どもに自然のことを教えるなんて、どうしたらできるというのでしょう。わたしは、そこにいる鳥の名前すら知らないのに!」
と嘆きの声をあげるのです。
上遠訳メモ:
原文では、複雑な自然を秩序や知識に「reduce/縮小する、煮詰める、還元する」ことができないというに留まっていて、自然界について「何も知らない」とまでは言っていない。また「鳥を見分けることすらできない/I don’t even know one bird from another」とは言っているが、「そこにいる鳥の名前すら知らない」と言っているわけではない。
江本感想:
「鳥の名前すら知らない」ことと「鳥を見分けられない」ことの間には隔たりがある。
たとえば僕は毎日のように川の生きものを観察していて、そこにいる白鷺がコサギかダイサギかは見分けられるのだが、ぼくがダイサギと呼んでいる鳥の中に実はチュウサギが混じっていたとしても、それに気づけない可能性が高い。「そこにいる鳥の名前すら知らない」わけではない。知ってはいるが、見分けられないのだ。
そして「見分けられない」とぼくが思うとき、そこには既に知識が介在している。感覚として見分けられておらず、それが本来見分けられるという知識すらなければ、そもそも「見分けられない」と意識することがないだろう。殊更そのような思いを抱くこともなく、ただ見分けられずにいるだけのはずだ。けれども僕は、ダイサギに似たチュウサギという鳥がいることを知っている。この知識と感覚の落差が「見分けられない」という意識を際立たせ、それまで以上に細やかな感覚を開いてくれる。知ることによって、感じることが促される。
それは必ずしも、個々の白鷺の「違い」が目に入らないから「見分けられない」という話ではない。むしろ、個々の白鷺の違いが目に入りすぎるから見分けられない、ということがある。同じダイサギであっても、成長過程によって体つきは変わるし、季節の移ろいの中で嘴や目先の色、羽根の付き方も変化していく。「違い」が分からないのではなく、これだけ装いの異なる鳥たちがすべて「同じ」ダイサギであることが分からないのだ。何の知識もなければ、夏に求愛しているダイサギと、冬にカワウと共に狩りをしているダイサギを「同じダイサギ」と判定することは、チュウサギとダイサギを「異なるサギ」と判別すること以上に難しいことかもしれない。
鳥を見分けるとは、今まで同じように見えていた鳥を異なるグループに分ける、というだけのことではない。今までは異なるように見えていた鳥を同じグループに分ける、ということでもある。何気なしに見れば同じように見える鳥たち、けれど、あるがままに見れば全てが異なっている見える鳥たちを、チュウサギかダイサギかという「単純な秩序や知識」にまとめることは、確かに難しい。
森田真生訳:
消化の準備すらできていない事実を、次々と与えようとしなくてもいいのです。まずは子どもがみずから「知りたい」と思うように、導いてあげることが大切です。
上遠恵子訳:
消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなに大切であるかわかりません。
上遠訳メモ:
原文では「facts he is not ready to assimilate/その子どもにはまだ消化の準備のできてない事実」に関しては、それを次々と与えようとしなくてもいいと述べるに留まっていて、事実一般について何かを述べているわけではない。むしろ、そのような制限をわざわざ設けていることから、「すでに消化の準備のできている事実」に関しては与えることが推奨されていると想像することもできる。
上遠訳では「not ready to assimilate」を「事実」ではなく「子ども」に掛けて「消化する能力がまだそなわっていない子ども」と訳している。その結果——解釈の余地のあるところだが——そのような子どもに対しては事実「一般」を与えなくてもよいと読めるようになっている。
また原文では「その子どもがまだ消化の準備のできていない事実」に関しても「a diet of/あきあきするほど」には与えなくてもよいと述べているだけで、そのような事実の供与がまったく否定されているわけではない。上遠訳では「a diet of」のニュアンスは除去されている。
森田真生訳:
ここまで私は、鳥や、虫や、石や、星など、この世界を分かち合う生物や無生物の同定の仕方については、ほとんど話題にしてきませんでした。もちろん、興味のあるものの名前がわかるに越したことはありませんが、それはまた別の問題で、名前を知るだけなら、ある程度の観察眼と、比較的入手しやすいハンドブックの類があれば十分なのです。
上遠恵子訳:
わたしはここまで、わたしたちのまわりの鳥、昆虫、岩石、星、その他の生きものや無生物を識別し、名前を知ることについてはほとんどふれませんでした。もちろん興味をそそるものの名前を知っていると、都合がよいことは確かです。しかし、それは別の問題です。手ごろな値段の役に立つ図鑑などを、親がすこし気をつけて選んで買ってくることで、容易に解決できることなのですから。
上遠訳メモ:
原文では、生物や無生物の「identification/同定」の仕方についてほとんど話題にしてこなかったとは書いてあるが、「名前を知ることについてはほとんどふれませんでした」とは書いておらず、これは上遠訳で挿入された文言となる。また原文では、名前を知るのにハンドブックだけでなく「a reasonably observant eye/そこそこの観察眼」が必要だとされているが、上遠訳ではこれが削除されている——あるいは図鑑を「すこし気をつけて選んで」という形に訳されているのかもしれない。
***
以上の比較対照を通じての感想:
上遠訳では、原文に比べて全体に「知ること」「教えること」の役割が軽減されており、一方では「感じること」「楽しむこと」の価値が強調されている。それが上遠さん自身の思想を込めた結果なのか、あるいは原文にあらわれていないカーソンの思想を忖度してのことなのかは分からないが、翻訳による意味のぶれというよりは、明確な意志に基づく体系的な翻案をそこに感じた。
一方の森田訳は、原文に対して忠実な翻訳が手がけられている。
ちなみに僕は、翻訳が原文に忠実であるべきだとは必ずしも考えていない。ひとりの人間が多大なる労力とそれに足るだけの熱意をもって翻訳にとりくむ以上、そこには多かれ少なかれ訳者の思想が反映されてくるだろう。また、文化の壁を乗りこえて翻訳をなすのだから、こちらの風土に合わせてその内容を味わえるように、積極的に翻案していくべき場面もあるだろう。
だから僕は、翻訳書を読むときには、それを原著者と翻訳者の共著として読んでいる。
喩えるなら仏教の書物を読むようなものだ。浄土真宗の思想であれば、それはもはや仏陀本人のあるがままの思想というよりは、仏陀を発端として、中国を経由し、親鸞によって当時の日本の状況に適合するようにアレンジされた思想だといえる。その思想がさらに時を越え、現代の日本にもさまざまな形で解説されている。
そうした解説書を僕は、ただ仏陀その人、親鸞その人の思想を知るためだけに読んでいるわけではない。そうした聖人の思想を頼りにしつつ自らの人生を読みとき、紡ぎあげていった無数の人々の物語としても読んでいる。そのようにして他者の思想を自分流に翻案していく技術を見習うことで、過去の思想を自らの人生に連続させていく手がかりが得られそうな気がするからだ。古典を読み継ぐとは、それを自分の人生に即して書き継いでいくことなのだと思う。
森田くんにしても「訳とそのつづき」を書くにあたって、自己を滅してカーソンの思想をあるがままに表現しようとしたわけではないと思う。彼の訳が原文に忠実なのは、「そのつづき」において彼自身の思想をより直接的に表現できたことと裏表の関係にあるだろう。「身近な自然の小さな神秘に驚き、慈しむ」心と、「きてよかったね/I’m glad we came」という一節をカーソンの思想の核心として引き継ぎつつ、カーソンとは異なる時代、異なる土地に生まれた「ぼくたち」の一人として、森田くんは森田くんの「センス・オブ・ワンダー」を書き綴った。上遠さんは翻訳の中で、森田くんは翻訳の外で、カーソンの思想を書き継いだのだ。
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