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綻びを纏う|関根みゆき「解くまでを結びとする」

和服を着るようになり、何かにつけては縫い目の綻びる着物を繕うために、針と糸を手にしてチクチクと布に向かう時間が増えていった。肘掛けにかかって袖が破けたり、寝転んだ拍子に脇の下が裂けてしまったり、その度に小一時間をとられていた僕は、なぜ着物の縫い目はこんなにも弱く、脆いのだろうと、軽い疑問と不満を抱きながらも針と指を動かし、もう、ちょっとやそっとでは縫い目が綻びないようにと、かなり強い調子で糸を縫いつけていた。

そんなある日、結びの研究者であり、松葉舎の卒業生でもある関根みゆきさんと久々にお会いして、着物が弱く縫われているのは生地を守るためなのだと伺った。外から力が加わったとき、真っ先に糸が切れるので、生地を傷めない。強い縫い目が生地を引き裂いてしまわないように、敢えて弱く糸を縫っているとのことだった。

着物の糸は、自らが弱くあることで布を守り、そのことで衣の修繕を可能にしている。無傷のままに纏い続けられることを、着物は想定していない。解(ほつ)れては繕い、繕っては綻びるという繰り返しの中で、着物は纏われてきた。

翻ってみると、着物が綻びないようにと僕が糸に込めていた強さは、却って着物の大破をもたらしかねない弱さであり、脆さでもあった。逆に、着物が綻びることを受け入れ、それを繕う手間さえ惜しまなければ、今まで弱さと見えていたものが、それでそのまま強さとしてあらわれてくる。

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着物は、弱いからこそ、強い。

僕にそのことを教えてくれた関根みゆきさんのインタビュー記事「解くまでを結びとする」が、日本建築学会ウェブマガジン『建築討論』の、「建築と紐」を特集した号に寄せられた。その中で関根さんは、結んでは解(ほど)き、解いては結ぶという往還の中で育まれてきた、日本の文化と美意識について語っている。

関根さんが結びの道を歩みはじめた切っ掛けは、お仕覆という茶入れ袋の、その口を封じるための結びだった。戦国時代の茶室には毒殺の危険が付きものだったため、自分にしか結べない独自の結びを袋の口に施すことで、他人が勝手にそれを開けられないようにしていた。もちろん、それを解くこと自体は誰にでもできる。しかし、一度解けば、それは他の人には結びなおせない。物理的に破ることのできない頑強な錠をさすのではなく、簡単に解けるけれども容易にはなおせない結びの繊細さを、いわば情報的な鍵として活用する。その逆転の発想に打たれたと、関根さんはしばしば口にしていた。

やがて仕覆の結びは、鍵としての役目をはなれてその形を展開し、花や蝶などを象った美しい結びが考案されるようになる。中身があるので、いずれ必ず解かれる結びである。にも関わらず、丹精を込めて、それを結ぶ。美をそこに結び留めていく。その仮初めの結びに、永久の美を宿すかのように。「いずれ解かれるのにこれだけ美しく結ぶことを楽しむのが日本の「結びの文化」だと思います」と関根さんは語る。

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着物生活の中にも、毎日帯を結んでは解くという繰り返しの所作がある。やはり、いずれ解かれる結びであり、冬場は羽織に隠れて見えない結びではあるが、毎朝帯を結ぶときには真剣勝負、その日一日の心身の状態を形づくるかのように丁寧に、かつ素早くそれを結ぶ。上手く結べた日には、それだけですっと背筋が伸びてくる。

実は帯だけでなく、着物自体もまた、いずれは解(ほど)かれるという見通しのもとに仕立てられているのだと、関根さんはいう。体の線に沿わせて布を斜めに裁断する洋裁とは異なり、和裁では反物をただ真っ直ぐに裁ち、そこから切り出された幾つかの四角い布を縫い合わせることで、着物を仕立てあげる。だからそれは、糸を解(と)けば、再び一枚の反物へと回復する。それを洗い、糊を引きなおし、布の幅を整えることで、新たな風合いのもとに衣を仕立てなおすことができる。

反物は、一枚の布としてまた巡り会う約束のもとに、切り分けられていく。着物は、いつか解かれるという分かれの予感のもとに縫い合わされ、ふたたび縫い合わされる未来のために、糸を解かれ、布を開かれていく。「お開きにする」とは、何かを終えるとともに、そこから開かれる未来を仄めかしもする言葉だと、関根さんは宗教学者・鎌田東二の説を引いているが、結んでは開き、開いては結ぶという往還の中に、着物という形は切り開かれ、実を結んできた。

ただし、直線的に裁たれた着物は、そのまま着たのでは体の線にそぐわない。だから帯を結ぶことによって、衣と体の関係をその都度に取り結ぶのだという。帯を固く結んで襟を正せば、骨盤が立って気が引き締まる。軽く結んで胸元をゆるめれば、吹き込んでくる風にこころまでが解かれて、ゆったりとくつろいだ心地となる。

カーテンの隙間から日の光がこぼれる朝のリビングで、娘は牛乳を片手にトーストを囓っている。僕はそれを横目に眺めながら、襦袢と長着に袖を通す。腰に巻き付けた帯の余りを折り返し、骨盤を絞り込むようにそれを後ろ手に引いて、夜分には解かれる帯を、今日も結ぶ。

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