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遠くの誰かよりも近くの人を大事に

こんにちは、田島です。先日学生時代の仲間3人で数年ぶりに集まってお酒を飲んできました。他人に誇れるような顔面だったら「僕らの時代」みたいに撮影してみんなに公開したいのですが。

境界はないがはっきりしない

僕らが子どもの頃って、テレビなのか学校の授業なのか「世界には飢えで亡くなる人がたくさんいる」みたいな話を何度か聞かされてような気がするんですよね。難民キャンプでやせ細った子どもたちの写真とかそういうの見せられて。

かわいそうだなあとか何か自分達にできることあんのかなあとか、うっすら思ったりしたけど自分が子どもだったせいかあんまり現実味が無かったんですよね。翻って自分が恵まれた環境にいるとも思わなかった。

それから30年くらい経つけど、実はその感覚にはあまり変化が無くて、どこどこの紛争がとか環境問題がとか聞いても上澄みは入ってくるけど本当に理解しようとしているかと問われると怪しい。

なんか遠いどこかで起きていることで、自分には手の届かない場所やその人にとっては大変だろうけどなかなか自分に出来ることは無いだろうなと思ったりする。

手の届く距離にいる人との関係だけ考える

ネットの向こう、テレビの向こう、新聞の向こうにいる人ってもちろん辿っていけば繋がるのかもしれないけど、結局は他人だし関係ないじゃないですか。もちろん、好きな俳優がいるとか好きなミュージシャンがいるとかはそれで成立しているので関係ないわけない、と言えるかもれないですけど。

それらの関係ない人のことで気を揉んだりするのって、自分に余裕があれば出来るのかもしれないけど、自分が追い込まれているときは難しいですよね。僕は結構無理なんですよ、会ったこともない人のことを大事に考える感覚というか、いや、たぶんその関係ない人に起こっている出来事を自分に重ねることで気を揉むんでしょうけどね。

その関係ない人よりも、僕自身の行動言動によって影響の及ぶ範囲にいる人、家族友人知人同僚いつも行くカフェのお兄さんとか、極端に言えば目の前ですてんと転んだおばあちゃんがいたら大丈夫ですかと声をかけて労わりますよね?

僕はこの自分の影響の及ぶ範囲にいる人のことをいざという時助けたいなあ、力になりたいなあとわりと思っているので、遠くの誰かのことを気に掛けている余裕はまあ、あんまりないんですよね。

手の届く距離はだんだん短くなるから

先日会った学生時代(大学)の仲間というのは、前回3人で会ったのはもう10年近く前だった気がしますけどやっぱりなんかのタイミングでは連絡を取っていたり話をしたりしていたんですよね。

けれども3人で会って飲みながら話していると、学生時代のクラスメートや友達、憧れてた女の子とか、名前は出てきても連絡する手段すら残ってなかったりする。

僕らが学生の頃はまだLINEはなかったし、それこそ携帯キャリアのメールで連絡を取り合ってRe:Re:Re:みたいに会話をしていたんだけど、今さらキャリアメールを送るわけでもなし、かといってこちらの酒の場のノリで直電するほどでもないし。

やっぱりみんな仕事だったり家庭だったりで大事にすべきものが出来ているだろうし、実際じゃあ会って話そうなんて思ってはみても実現できないのがほとんどじゃないですか。

だから今思い浮かぶ人とはなんとか連絡取らないと、これからどんどん思い浮かばなくなるだろうし、より会えなくなるだろうなあと思ったりする。だから今手の届く距離にいる人は大事にしないといけない。もう会えないかもしれないので。

みんながそれぞれの近くの人を大事にしたら、遠くの誰かも、誰かに大事にしてもらってるってことになりませんかね。

隗より始めよではないけど、灯台下暗しではないけど。

僕らが遠くの誰かをあれこれ考えるよりも、いいと思うんですけどね。


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