小説「ひとりごと」

「ひとりごと」
 
 自分の人生というものを考えたとき、そこには常に淡い影のような孤独がつきまとっていた。
「ねぇ、どうしてそんなに大きな声でひとりごとを言うの?」
 キッチンで夕食をとりながら彼女がたずねた。最初そう言われたとき、僕は自分がひとりごとを言っているなんてまるで知らなかった。
「ひとりごと?」
 びっくりして僕はたずねた。
「僕はひとりごとなんて言ってないぜ。」
「言ってたのよ、今まさに。」
「どんなことを?」
「どんなことって…天気がどうとか、明日は晴れるのかとか、そんな他愛のないことよ。」
「僕はひとりごとなんて言っていない。」
 僕はきっぱりと言った。
「そんなことを大きな声で話していたらさすがに覚えているはずだし、そんなこと言った覚えは全くない。」
「でも言っていたのよ、現に今さっき。」
 それで僕は考え込んでしまった。
「そんなに深刻に考える必要はないのよ。」
 彼女は言った。
「ひとりごとなんて誰でも言うんだから。」
 しかし僕の頭からからは、しばらくひとりごとに関する話題が離れなかった。今まで誰かにその事を指摘されたことは無かったし、全く自覚すら無かったのだから。食事を終え、寝室のベッドに入ってからも、横で眠る彼女の寝息を聞きながら自分のひとりごとについて僕は考え続けていた。
 幼い頃の僕は内気で気弱な少年だった。自意識が強く、他人からどう思われているかがいつも気になった。そんな内気さと自意識の狭間で他の子どもたちとどう接して良いかわからず、結局孤立することになった。集団行動というものにどうもうまく馴染めなかった。そして僕は本ばかり読む子どもになった。本を読んでいる間は少なくともその世界に没頭することが出来たし、周囲との距離感に悩まされる必要も無かったからだ。学校も休みがちでいつもどうにかして授業をサボる口実を考えていた。そんな僕を祖母はひどく嫌った。昔かたぎというか、学校で友達と遊ばないような子どもは、ろくな大人にならないだろうという考え方の持ち主だった。学校を休んで一人部屋にこもって本を読んでいると、「そんな元気があるなら学校に言って友達と遊んで来なさい。」とせき立てた。僕は祖母が部屋までゴソゴソと階段を上がって来る音が嫌だった。
 翌朝目が覚めると彼女はキッチンで朝食を作ってくれていた。トーストとレタスのサラダ、ベーコンエッグにコーンスープ、それにひと口大に切り分けたバター。ドリップしたコーヒー豆から芳ばしい香りが立ち上っていた。朝食の席で彼女は夕べ見た夢の話をした。
「あなたがどこかに行ってしまう夢なの。」
 彼女はスープを混ぜながら言った。
「あなたの後ろ姿に向けて何度か呼びかけるんだけど、私の声はあなたには届かないの。そしてあなたは行ってしまったわ。大きな声でひとりごとを言いながら。とても悲しい夢だったわ。」
「ひとりごと?」
 まただ、と僕は思った。僕は彼女のことを放っておいてまでひとりごとを言い続けていたのだ。夢の中の話とはいえ、僕は少し後ろめたいような気持ちになった。
「少し真剣に考えた方がいいかも知れないな。」
 僕は言った。
「あなたのひとりごとについて?」
 彼女は驚いたように言った。
「だってこれは夢の話よ。それに実際のひとりごとにしたって、現実に何か支障をきたしているというわけでもないのよ。人混みの中で突然大きな声でひとりごとを言い出して変な目で見られたりとか。」
 僕はトーストにバターを塗りながらしばらく考えていた。そして言った。
「夢というのは象徴なのさ。財布を落としたりだとか仕事に寝過ごしたりだとか、そういったことについてかも知れないけどね。」
 僕は笑って言ったが、彼女は心配そうな顔で僕の方を見ていた。
「あるいは現実のメタファーと言えるかも知れないね。いつか夢が現実となる前に、その原因を突き止めなくちゃ。」
「ふぅん。」
 彼女はあまり納得していないようだったがそれ以上は何も言わなかった。
 さて、と僕は食事の後で皿を洗いながら考えた。

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