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算数へのブーイングを横目に見ながら、いつも思うこと。

時折、算数についての談義めいたニュースが上がり、SNS上やコメント欄での論議に花が咲くことがある。

それを横目に見ていて、いつも思うのは、この人達は算数という学科の成り立ちについて考えたことがあるのだろうか?
ということである。

算数は「読み書き算盤」の延長で成り立っている。
算数は取引事をはじめとする仕事の為に学ぶ。
そういう目的で始まった学科が算数だった。
そして、その系譜は未だ途切れていないということ。
そこを、しっかりと理解しての論議がなされているのだろうかという点において、私は迷わずに「否」という答えを出す。

算数という学科は、計算される数字に単位が付随して、はじめて実世界と手をつなぐことができる。

単位が存在しない算数は、ユークリッド幾何学という仮想空間上での数遊びに過ぎない。
端的な例が、平行の定義である。
定義は「 一平面上の二直線、または直線と平面、あるいは平面と平面とが、どこまで延長しても交わらないこと」そして「直線も平面も際限はない」である。
これを現実空間で再現できる筈はない。
もっと身近で物を言うと、地球は丸いのだから、地上に平面は作れないのだ。

そのことをしっかりと押さえて教えている「親」や「教師」がどれほどいるだろうか。
(ここでは、あえて「親」を前に書いた)

単位のない、ただの「1+1」の答えを「2」と規定できるのも、仮想空間であるユークリッド幾何上だからである。

現実空間は、単位のない1+1は成立しない。
加えて計算対象物が同一でないと1+1の計算は成り立たない。
それぞれ1リットルの瓶いっぱい入っている大豆と米。これをひとつの容器に混入しても2リットルにならない。
そういうことを、しっかりと教えてくれている「親」や「教師」はどれほどいるだろうか。

本当は、小学生には何度も何度もこういう事を言ってあげないと駄目なのである。
でも、この部分は、本当におざなりになっている。

余談になるが、ドラマや小説のキャラクターが「1+1は2という風にしっかりと答えが出るから……」なんて台詞を話すと、その時点で、我が家ではギャグとして判断される。

この延長に、5×4=20の正解に対して、4×5=20は間違いとして扱われることへブーイングが良く囁かれる。
これも単位を無視しているから出てくる意見だろう。
先にも述べたが、算数は読み書き算盤の延長にある学科である。
学問ではなくて、学科である。
長じてから生活に役立つ様に仕立てられた学科である。
だから、計算式に付随する単位の順番にはルールがある。
例えば、単価×個数=総額というように。
そのルールが身に付いていないと、商売で帳面を付ける時に困るのだ。

また、算数の問題は必ず図形に変換できるということもちゃんと教えておくべきだろう。
もっと言うなら、算数の問題を解く時には、図形に置き換えて考える習慣を身に付けておく訓練が必要だと思っている。
これが出来ていたら、少数や分数での掛け算・割り算の理解がより容易になる。

だからこそ、幼少期に足し算・引き算を学ぶ時には、どんなに面倒でも、どんなに時間がかかっても、式を図形に書き換える、数字をおはじきなどに置き換えて数える訓練の繰り返しが必要になる。
だが、今の教育のやり方はそこを省く方向に疾走している。

ここまで語ってきた事柄について「明治の頃はそうだったろうが、今は令和だ。時代が違う」という異見もあるだろう。
まぁ、その通りだ。
だが、その異見を通したいならば、算数という学科が立っている根幹、基礎をしっかりと書き換える作業が必要だろう。
有耶無耶のまま、悪い意味でのいい加減さで、改訂程度のレベルで進めて来た結果が現状なのだから。

異見を正論にするには、算数という学科を学ぶ目的をちゃんと書き換えるべきだ。
そして、新しい目的は今後の百年を見据えたものにすべきで、現在の気分的な異見が元になっては駄目である。

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