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心と魂魄と憑きもの達に思うこと。

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人の心とか魂魄とかのこと。それらを食料とする憑きもの達のこと。 あとは、占いとかのこと。 そういうことを書いたものをまとめています。 本当のことを真摯に書いたつもりですが、読む人…
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殴り書き(京王線車内で発生した傷害放火事件の犯人に関する殴り語り)

今回の文章については、プロファイリングも検証も不十分なままの殴り書きである。 数日が過ぎたら、恥ずかしくて消してしまうかも知れない。 ある種の独善性とも暴力性ともつかない何某かが含まれている、思い込みによる勘違いが混ざっている、支離滅裂な殴り書きだと思う。 その旨を分かった上で、読んで頂けたらと思う。 あのハロウィンの夜に京王線の車内で起きた、あの傷害・放火事件の犯人について、久しぶり嫌悪感が満載になった。 この嫌悪感は、巷で言われている嫌悪感とは全く違う。 私の個人的な

「死ぬまで生き続けるべき」理由、その中のひとつについて。

先週、NHKの番組「深読み読書会」にて、井上靖作の「敦煌」を扱っていた。 これをつらつらと視聴していた。 そのなかで「人は死ぬ瞬間まで生きるべきだ」という言葉と、「文化は継がれて行ってこそ価値がある」という旨の主張とが紐付けされて膝を打つ思いがした。 人はやがて死ぬ。 だが、自分が得た何某かを引き継がせることで、自分が生存していた間に担った役割を果たすことができる。 完全ではないけれど、ごく一部ではあるけれど、役割を果たすことができる。 自分の生きる先に希望はないかも知

私は議論がしたいだけなのに……

私は議論が好きだ。 なぜ好きかと言うと、自分の思考の弱点や限界や思い込みが露呈するからだ。 自分の中の価値観や思考に絶対性や正しさを信じることができない私は、自分の中の思考の歪みや穴を知りたいと思い続けている。 だから、私は議論をしたいと思う。 ただ、この議論には前提条件がある。 ちゃんと、人間の思考からくる結論は相対的、非普遍的であると理解している人と議論がしたいのだ。 自分の主義や主張は正しい、それ以外は正しくないと思いこんでいる方とは議論したくない。 なぜならば、

第10話 呪いへの対策、基本編 (新作、娘との会話シリーズ)

 一人暮らしを始めた娘から連絡が来た。  娘のたてる音に隣からクレームが来ているとのこと。  娘の生活音と声が気に触るらしい。 「まぁ、一人暮らしを始めた当初は、寂しくて、真夜中に目覚めて反射的に泣き叫んでしまったことが何度かあり、それについては申し開きもできないんだよね」と娘は言う。 「でも、今はそれもないし。音も気をつけているし、どうしたらいいのかわからずにいたんだけどさぁ」と娘は続ける。  そこで、電話先の娘がにまりと笑った感じがした。 「実は、今日さぁ『お前の心臓の音

黙っていて。

我が家は皆して、鈍足である。 幼い頃の娘は心肺機能もあまり強くなかったため、持久走は本当に苦手だった。 小学校の持久走大会では必ずひとりだけ取り残されてゴールしていた。 ある学年の時、たまたま休みだった私は持久走大会の応援に行った。予想通り、娘は独り取り残された形でゴールした。 クラスメイトたちは「頑張れ」と言いながら手を叩いて応援してくれた。 娘は声援の中、顔を真っ赤にしながら、フラフラしつつゴールした。 私は娘の表情に違和感を覚えた。多分誰も気付いていないが、

酷いことするとき酷い顔できる大人になってくださいね。

タイトルは「堕教師」という大森靖子(おおもりせいこ)の曲の一節である。 大森靖子という女性を知ったのは、相当に前のこと。 6年か、7年ほど前、「ワンダフルワールドエンド」という映画が縁だった。 当初は、主演女優の橋本愛を目当てに、娘がその映画を観に行った。その結果、娘は大森靖子にはまり、傾倒した。 娘は大森靖子を経由して様々なものを得た。大森靖子からの橋本愛への回帰、戸田真琴、紗倉まな、ZOCの面々、などなど。 娘と私との会話の中にも度々大森靖子の名は出てきて、私も

岡本太郎は蹂躙(じゅうりん)することを躊躇(ちゅうちょ)しない

蹂躙(じゅうりん)、躊躇(ちゅうちょ)、字面が似ていて時々読み間違える。今回はこのふたつの熟語が頻繁に出てくるから、読みづらいかも知れないが、その辺りは我慢して付き合って欲しい。 「蹂躙を躊躇していない」 これは岡本太郎の作品を見た時にいつも感じる感想である。 パブロ・ピカソの絵画でも感じることだが、蹂躙の度合いは岡本太郎の作品の方が圧倒的だ。 きっと、冷静なクリエーターならば、自分の作品が岡本太郎の作品の横に置かれたりするのは絶対に避けたいと思うだろう。 でも、時

魂魄に刃物を当てて交渉する

心と魂と魂魄(こんぱく)。 私の中では別物として扱っているものです。 心は生霊や怨霊の類が狙う部分。人の言動の基盤を司る部分。ここを侵食されたり、壊されたり、掌握されたりすると、理性や感情で持って対抗しようとしても上手く回らなくなります。 魂はそれこそ一般に言われる魂と一緒。多くの人がイメージしている部分です。思いがかたまりやすい部分でもあるので、幽霊や守護霊や怨霊の根幹になる所です。 (人の)魂魄は私が以前に投稿した通り、人(物体を持つ生き物)ではないナニカが餌とし

憑きもの祓いへの対価について

憑きもの祓いへの対価のことを話す。 当然ながら、対価は言い値である。もしくは相手からの厚意に依存する。 祓いごとの対価に数十万円払ったとか、数百万円払ったとかの話があるけれど、その金額が妥当な場合もあるし、不当な場合もあるというのが私見だ。不当は高過ぎるだけでなくて、安過ぎるという場合もある。 もし、祓師、祈祷師の力量がしっかりしたもので、相手が相応の資産家で、霊障による被害が人命や家の存続に関わるようならば、数億、十数億円の対価を請求しても問題ないと思っている。 祓

祈祷師は、家族の言葉を信じてはならない(憑かれいる者が別人な場合も、憑いている輩が別所にいる場合もある)

実際に、人ではないナニカ(以下単にナニカと記す)に憑かれ、魂魄をかじられてしまった者(以下当人と記す)を祓う場合でも、家族(依頼人)の言葉を信じてはならない。 実際に自分で確かめてみる必要がある。 当人に現れている霊障が実は当人の魂魄を守る過程で発生している場合だってある。こういう時に当人側に対して祓いを行うことは、取り憑こうとしているナニカの手助けをしてしまうことになる。 私たち祓う側は、必ず、ナニカが何処にいるのか、どういう方法をとっているのか、何を目的にしているの

祈祷師は、家族の言葉を信じてはならない(生き霊や呪詛の多くは家族や家系が由来)

憑きもの祓いを請け負う時、気をつけないといけないことのひとつに、家族の言葉を信じてはいけないということがある。 当人にとっての幸福や安寧と、家族が当人へ寄せる期待には必ずギャップがある。これを忘れてはいけない。 特に、当人の親だったり、本家筋の親戚だったりの連中の言葉に裏があると思って間違いない。 当人の幼少期から呪詛を仕掛けて来た連中なのだから。 以前の投稿でも記したが、誰かを育てるということはその者に呪い(のろい、まじない)をかける行為である。当人に手枷、足枷をは

家族がナニカに取り憑かれたという場合、その殆どは嘘

人ではないナニカ(以下に単にナニカと記す)に憑かれた。お願いだから祓って欲しい。 そういう依頼を受けた時、だいたいは家族側の勘違いなんだよ。 殆どの場合は、統合失調症とかの心身症の患者さんなんだよ。 その見極めをするのも、祓う側の役割なんだよ。なんでもかんでも祓えばいいってわけではないんだよ。 こういう場合はお祓いとかじゃなくて、当人や家族を説得して心療内科へ送るのが最適解なんだけれど、これが大変なんだ意外とね。 憑きものだと信じている連中を、そうでないと方針転換さ

だいたいさぁ、人の魂魄って食料なんだよね。

物理の世界では人は辛うじて食物連鎖の頂点に居ることになっているけれど、非物理(魂魄)の世界ではそうでもないだよね。 食物連鎖的には比較的下の方なんだよ。 まぁ、物理の世界で言うならば、雑木林に生えている樹木みたいな感じなんですよ、人の魂魄って。 質量と体積を持たない意思のあるナニカ(以下単にナニカと記す)のうちの何種類かは、人の魂魄に取り付いて暮らしているし、それが健全な姿。いわゆる共生ってやつ。樹液を求めてカブトムシがやってきたり、キツツキが巣を作って虫を啄んでいたり

憑きものを祓って終わり。では、喰われた魂魄は誰が修復するのか。

タイトルがそのまま、私が殆どの祈祷師、憑きもの祓い、エクソシストを信頼せずに、見下げる(みさげる)理由のひとつ。 人ではないナニカ(以下単にナニカと記す)に憑かれ、魂魄をかじられ、喰われ、取り込まれた誰かが居たとする。 そのナニカはどうしてその者に憑いたのか。どうしてその者の魂魄を喰むのか。その理由は様々である。 単にその者の魂魄が熟して美味かったからなのか、ナニカが大変に空腹だったからなのか、その者が目的ではなくてその者につながる何者かが目的だったのか、その者が邪魔だ