【13】Jesus: A Gospel of Love (2024年3月20日春分の日、メキシコ半分経過した)
究極的に、この道は自分vs自分だなと思う。
本当に他者は存在していなくて、いると思っている外側は実は自分の内面がそこに現れているかに見えているだけなので、それをどう見るかは完全に自分の責任でしかないのだ。
デイヴィッドが言う例え話し
人を指差して何か言っている時に自分の5本指のうちの一本だけが外に向いていて他の3本指は自分に向いていると言ってくれるらしいけど、その通りで、他者について語っていて世界について語っているとき、自分について語っているわけなのだ。
「自分は自分のことをこうだと思っている。それが自分だ」
と、24時間体制でひっきりなしに考えている夢見る者。
その夢見の当事者が当事者ということをすっかり忘れきって「分離した感覚を維持する仕掛け」がどうにも止まらない。
自分裁き中毒がやめられない、深いレベルでは分離したままでいたいし自我の思考体系から抜け出したいと言いながら、実はその自我の作者である自分は自我を愛していてそんなに今すぐ手放したいとは思っていない。とか、相当心当たりがあるのだ。
先日カースティンと話していた時に「こういうふうにコミュニティーで共同生活していると自分の自我の想いに直面して居心地悪さを経験するわよね」と話していた。今の私の場合、兄弟に対するジャッジの居心地の悪さはそこまで辛くないけど(自我の解釈はとにかく狂っているので正しいと思いたい欲求が薄いのだ)、自分の心の中にある聖霊と一致したい部分と、自我に同一化したい部分との間の葛藤が相当キツイ。なんせ、自我は神の子を殺したがっている思考体系なので私は私を殺したい。しかも、「私」は自我を愛してしまっているのだ。。
けど、その狂った心の状態で葛藤し続けることよりも、愛してしまっている自我もろとも、自分のすべてどれも除外せず、聖霊の祭壇によじ登り自分も自我も含めたすべての荷物を神にあげてしまうことで、その瞬間途端に心が軽くなる。
末期的に狂っていることを重々認めて、私のすべてを神にあげ続けてゆきたい。
この境地を思い出せるのは五井先生のおかげだなと思う。五井先生ほんとうにありがとうございます。お母さんありがとう。お父さんありがとう。
(お母さんはどんな時も挫けず疑わず五井先生に信を捧げていた。お父さんは五井先生の存在をお母さんに知らせてくれた)
(仮邦題)「イエス・愛の福音」 デイヴィッド・ホフマイスター
"Jesus: A Gospel of Love" by David Hoffmeister
✨以下、本書の「3. Speak on the Parable of the Prodigal Son / 放蕩息子のたとえについて語る」より、いくつかの文章を抜粋しています。仮翻訳段階ですが、ハートで受け取っていただければ幸いです。
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