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献身滞在(合宿)や、勉強会(クラス)の意味

この道を歩むほどに色々と見えてきたり自覚が起きるものなのだけど、それについては奇跡講座で分かりやすく解説し尽くされている。

ただ闇雲に赦しの実践をし続ければそれで良いわけではない理由は、私たちの心がまだまだ十分に癒やされていなくて浄化が起きていないので、知らず知らずのうちに聖霊よりも前に出た状態で、妥協しまくりの状態で何年でも何十年でも自分なりの(聖霊よりも前に出た状態の)赦しの実践をして時間を過ごしていく。。というトリックが生じていても、ほとんど自力ではそのトリックに気がつけない。

私は2017年〜2018年に頻繁にアメリカに行って、そこでデイヴィッドコミュニティーとは関わりのない学習グループの人たちと密に接触したことがあるのだけど、その人たちや先生の立場をとっている人が、いわゆるこの世的なスピリチュアルなものの見方や生き方で、一生コース学習者でいる決断でもしているかのように、当時すでに学習歴30年とか40年なのだという話を聞いて愕然としたのを覚えている。

もちろん、彼らは彼らなりに赦しや癒しや奇跡は起きているわけなのだけど、要するに「私」や「世界」が消滅することを根本的には望んでいない学習者であった。

これは、誰にとっても生じると思っていい妥協で、普通はなんの疑問の余地も挟まれないことでもある。普通はこの妥協に気がつけない。

言葉を変えれば、何が幸せであり何が不幸であるかの見分けがつかない。
自分と他者が存在する。という状態は悪夢で地獄であり、自分とすべてがひとつであるという継続的な経験は幸せな夢で実相世界である。というシンプルな当たり前さを思い出せない。もちろん思い出せない理由は「分離したままでいたい」という願望と決断があるからなのだけど。

真我なるハートという学習グループが現れてから、かれこれ10年経過しているわけなのだが、正直言って「こりゃ、どうしたものか」と個人レベルののり子はたまに頭を抱えるようなこともしばしば直面する。
それもまた善きことらしく、個人ののり子に同一化している「私」のリアリティーの脱落を助けている。

完全なるサレンダーが最終的に必要なこと。

でもそんなサレンダーをする気も無い、完全なるサレンダーがなんなのかも本当には知らない「私」にとっては、どこにも出口を見出せないような閉鎖的な壁・床・天井に塞がれた感覚になっている時こそ「私」という限界が解き放たれるチャンスなのだ。

というわけで、今私は「こりゃ、どうしたものか」と頭を抱えている自分の一部を認識しているので、光の兆しも感じている。

カオスに隠されていた恩寵がすぐそこにある。
だから、カオスから顔を背けたくないし、カオスを認識したい。
光の放出を許可したい。

大なり小なり、妥協を認識して妥協をやめていく心の訓練場として
オンライン/リアルの献身滞在があって、クラスがある。
そして、知的レベルだけにとどまらず文字通りに、まさにコースで書かれていて教えられている通りに、心が「何が幻想で、何がリアルなのか?」を逃げずに受け入れていく機会が、献身滞在だと思う。

🟠 7月20日(木)から7月の献身滞在がスタートする。




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