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リードオルガンの奏楽者

2010年 2月 聖公会新聞

「オルガンは弾けますか?」神学生になった当初、頻繁に聞かれた事だ。決して自慢できないが、私は楽譜が読めない。学校の音楽の授業では譜面の音符にカタカナでドレミを記入しなければ、リコーダーが吹けなかった。小学生の頃は友達が弾く曲と指使いを見て覚えて真似していた事もあるが、そんな脳の機能、今では全く期待できない。自分はこんな状態なので、楽器を演奏する人は尊敬と憧れの存在である。


旭川聖マルコ教会では、毎月オルガニスト会をしている。70代から20代まで、信仰歴もキャリアも様々だ。例によって「ウチの畑の野菜たち」で整えられた夕食を囲む事から始まり、礼拝音楽の話題でひとしきり盛り上がる。研修会の報告や分かち合い、チャントの有る・無しの確認、奏楽奉仕で困っていること等を話し合う。今では絶版となった楽譜を全員分コピーして、弾きやすい曲、季節や場面に合った曲等のアドバイスを交わしたりもする。


礼拝で奏楽奉仕をするのは、主にオルガニストが多いだろう。リードオルガンを弾くのは想像を超えた作業の連続であることをご存知だろうか。まずストップを引いて音を組み合わせ、鍵盤を押して音を出すために足でペダルを踏んで空気を送る。礼拝の人数が多ければより強く多く踏み込み、さらに音を大きくするレバーを膝で広げる操作が必要になる。どんなに淑やかな方も、オルガンの前では身体全体を駆使する体力が必要とされる。

クリスマスの礼拝堂は容赦なく真っ暗になるし、真夏は風通しが悪くて暑い。ご厚意の扇風機で譜面が乱れて慌てる。5曲の聖歌とチャント、前奏・間奏・後奏を考え、一通り練習すると時間はあっと言う間に過ぎて行く。奉仕としては背後に膨大な労力を秘めている働きである。こんな現実を知りながら、聖歌番号を決めるのが遅くて皆さんに申し訳なかったと反省しきり。


私なりに感じることは、音楽は人の心に働くということ。騒がしい子どもたちもピアノが鳴れば皆歌い出すように、礼拝堂のオルガンは会衆の心を神様への感謝と賛美に向かわせる。それはもう理屈抜きに、集う人の心に解放をもたらすものである。足腰の痛むことを一時忘れて賛美する人、さっきのイライラを忘れて賛美する人、どの顔も気持ちよさそうに見受けられる。奏楽者の奉仕は、大きな祝福に満ちていると感じる瞬間である。

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。
 詩編 100編 1~2節


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