悲喜こもごも5 〜シネマ法話『レ・ミゼラブル』より〜
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
[ 『歎異抄』13章より(『浄土真宗聖典』844頁)]
『レ・ミゼラブル』
2012年製作 / イギリス・アメリカ合作のミュージカル映画
監督:トム・フーバー
原作者:ヴィクトル・ユゴー
原作『レ・ミゼラブル』はフランスの歴史小説で、世界43か国で上演されミュージカルの金字塔といわれています。1862年(文久2年)に出版され、日本では1902年(明治35年)に『噫無情』(ああむじょう)として『萬朝報』というかつての日刊新聞に連載されました。小学校の時代から課題図書として馴染み深く、覚えておられる方も多いと思います。私はこの作品が大好きで、小学生の頃は何度も読みました。
この映画の時代背景は、革命のとき、激動の時代のフランスです。
ある日、ミリエル司祭の司祭館を1人の男性が訪れます。その男性の名前はジャン・バルジャン。1本のパンを盗んだことをきっかけに19年も服役していたバルジャン。行く先々で冷遇されていた彼を、司祭は温かく迎え入れます。この司祭との出会いによって、人間不信と憎悪の塊であったバルジャンは善良な市民として生まれ変わることを決意し、その後、波乱の生涯を送るのでした。
本作は、激動の時代に翻弄され数奇な運命をたどるジャン・バルジャンの生涯を描いた物語です。
親鸞聖人は弟子の唯円さんとの会話のなかで
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」
(そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いもしてしまうのが私です)
と仰いました。
では、私はどうして「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいも」してしまうのでしょうか?
それは私が「縁」を生きているからです。
父と母の縁があって私が生まれ、様々な環境で育ち、たくさんの人と出会い、出会った人から影響を受け、それらの縁を頂いて私は私となりました。先に私が存在して、そこに縁が集まってきたのではありません。自分1人の力で生きているのではなく、無数の命や事柄と繋がって私はいます。
そして、親鸞聖人は「あなたは、いかなるふるまいもすべし」と仰られているのではなく「さるべき業縁のもよおせば」と仰っています。そして「いかなるふるまいもすべし」と。縁あってこその私なのです。
1人の徒刑囚だったジャン・バルジャンが、ミリエル司祭との出会いをはじめ様々な縁で偉大な聖人として生涯を終えるこの物語で、親鸞聖人が唯円さんに仰ったお言葉を思い返しました。
縁を頂いて、いま私がここにいます。
今回の映画は、「さるべき業縁がもよおして」、「いかなるふるまいも」してきた今の私の姿を教えてくれるものでした。
合掌
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