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祖母の死とSNSの乗っ取り

「誤嚥性肺炎も落ち着いてきたのでしばらくは大丈夫でしょう。」

入院した後の祖母は良くなったり悪くなったりして、3回心臓が止まっては動いて、私はそのたびにタクシーを飛ばして駆けつけたが、主治医からいよいよ、こう言われて、少しホッとしていた。

京都から駆けつけてしばらく滞在していた父もホッとして新幹線で京都へ帰っていった。祖母は笑顔で私の手を握っていた。私の手以外は払いのけるのだが、みんな笑顔で納得していた。

「おばあちゃん、私、明日も来るからね!」と大きな声で耳元に話しかけると嬉しそうでうなづいているようだった。

しかし、次の日の朝だった。また病院から呼ばれた。もうダメかもしれないと言われた。祖母がまた心臓が止まったと言われたのだ。いつものように、サッと支度をしてタクシーに飛び乗る。

私は心で泣いていた。昨日の一番笑顔を思い出していた。

「だって、昨日また会えるって言ってたじゃない。」頭の中で祖母の表情や手の感覚、自分の言葉を繰り返していた。ありきたりかもしれないが、そんな事を考えながら涙を堪えてタクシーで大人のフリをして病院に向かった。

ピー…

あぁ本当にドラマみたいにこんな絵があるんだ。泣くことより真実と思えなくて信じられなかった。主治医に「よろしいですか?」と聞かれた。延命はしない約束だった。何がよろしいかというと死亡時刻を告げるタイミングである。よろしいわけないけれど、私がはい。を答えるしかない。淡々と時刻を告げると主治医は去っていった。

「おばあちゃん、約束したじゃない。どうして、昨日笑ってたよ。」手を握って泣いても、返事も何もない。
亡くなった体はただ冷たくて、触っても虚しくて何もない。これが人の死なんだと私は初めて直面した。当時のパートナーがポンと肩を叩いたけれど、それと同時に次に看護師さんが戻ってきて「お化粧してあげませんか?」と言われた。私は涙を止めて笑顔で「ぜひ、やらせてください!」と言った。

病院のメイクセットの口紅が良い色がなくて、私は自分のポーチから口紅を出してつけてあげた。私と祖母は似ているので、ピッタリと綺麗なピンク色の唇になった。

遅れて叔父さんがきて、叔母は少し泣いていた。いとこもかけつけてくれた。さらに父がきた。父は霊媒師なので、「部屋に落ちた魂をあげに行かなきゃ。」と言って病室へ行った。病室では祖母は体を拭いてもらっていた。

全員が揃った頃、私はやっとお手洗いに行った。すると、祖父た祖母が手を繋いでいるのが見えた。感じたに近かったかもしれない。20年以上もバラバラに過ごしていた魂が嬉しそうに手を繋いでいた。何となく二人とも若返っているようにも見えた。

「ゆうちゃん、ありがとね〜」

そう言って、空に上がっていくのを見た気がした。

死亡届を初めて書いた。その辺りも無我夢中で自分ではないくらいのパワーでこなしていた。

そして、葬儀で焼けた祖母を見た瞬間自分の魂まで抜けていくような気持ちになった。燃え尽きたのは祖母と私の心だった。

祖父母のお墓は宮崎の延岡にあり、私とパートナーは飛行機で行く事にした。そして、祖母の好きなオロナミンCと祖父の好きな缶コーヒーをお供えした。やっと二人になって本当に喜んでいると思う。

祖父は亡くなる時に祖母の名前と私の名前を呼んで亡くなっている。やっぱり使命だったとしか思えない。

せっかく延岡に来たのだからと、高千穂峡に行った。すごいパワーで私は天岩戸神社と高千穂から、どんどんどんどんパワーのシャワーを浴びているように感じていた。

笑顔さえ湧いた、ものすごい悲しいのに祖父母が一緒にいる事がうれしいと思っていた。天照大神様と祖父母が、頑張ったねと言ってくれてとしか思えなかった。

写真を撮ると虹彩がたくさん見えたり、お天気が良くなったり、偶然ボートが空いていたり、ラッキーが続いた。不思議な場所だが、怖さは感じない。むしろ、ご褒美に自然が素晴らしいものを見せてくれてる感じだ。ついでに大阪に寄って、大好きな吉本新喜劇に行った。少し笑えた。

私は、祖母の事を思うとニッコリできる心と、大泣きしてしまう心が分かれている。祖母も私のガイドだと信じている。

何故かというと、いつもお世話になっている茅ヶ崎のリフレクソロジストの方にアクセスバーズをやっていただいた最中に祖母に会えたからだ。

ビジョンが見えたのだ。
真っ白の部屋にドアがあって、祖母は真っ白のワンピースを着ている。そして「ゆうちゃんは、もう何もせんでいいとよ。」と宮崎弁で言っていた。その一言は忘れられない。

悲しかったのは、ちょうどその時にTwitterの乗っ取りに丁度合った事。
乗っ取りに慣れてない私は慌ててアカウントを消してしまった。2000人以上の方がフォローしていたのにだ。

悲しみが重なり、ろくにフォロワーの方々に謝ることが出来ていない。
この場を借りて…届くと信じてごめんなさいとお伝えしたい。今も「あの人は元気かな」「またご縁が繋がるかな」と思い出してしまう。

あの時、Twitterから消えたのは、神様が私に休みなさいと魔法をかけてくれたのだと思うが、ご挨拶できず、上手に伝えられずごめんなさい。とお伝えしたい。

他の人間関係全体が尖っていた。

宮崎から帰ってからは、ずっとなんとなく泣いたり怒ったりヘラヘラしたりしていた気がする。

あの時の私は、
本当は静かにしたかった。
本当は泣きたかった。
本当は慰めてほしかった。
それが当時の私の気持ち。

今は、心も落ち着いていている。

ガイドなので祖父母と話をする機会がある。

先日は、祖父母とおにぎりを持って明治神宮に行った。祖母の好きな梅おにぎりと祖父の好きなお肉のおにぎりを晴天の太陽に向けて一緒に食べた。楽しかった。

そういえば、ブッダのたとえ話に、どこの家にも死んだ人のいない家なんていない。というたとえがある。

なので私は当たり前のことをしただけかもしれない。もっと大変な看取りをした方も沢山いるかもしれない。

だけど毎日、お日様も祖父母も褒めてくれてると思って私は幸せ。

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