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風姿花伝

仕事の心がけ、といった程の話ではないですが

日本ではみんなと同じがいいという考えがあり、音楽にしても本物に似ているものが本物だという風潮があるそうですが
海外ではオリジナリティを求められることが多いようです
イギリス出身のDJさんもオリジナリティを重視されたり、アメリカで活動する日本人ギタリストさんも、海外ではオリジナリティが問われる話されていましたが、日本人には日本人の美意識があって
日本には日本の芸術や文化があって

じゃあ、日本はどうなの?

そう思った時に思い出したのが風姿花伝
芸術理論の古典で能の世阿弥、ぜあみが室町時代
15世紀初頭に書いた舞台芸能の能の理論書です

能の前身にあたる猿楽は平安から鎌倉時代に演じられたもので
起源はインドや神代からという説もあるそうです
推古天皇の時代に天下泰平、人々の娯楽のために
聖徳太子が秦野河勝に命じて作らせ
河勝の子孫たちが継承して春日神社や日吉神社の神主となり
それで両社の神事には大和(現在の奈良県)や
近江(滋賀県北東部)の役者が猿楽を奉納したそうです
元はそんな芸能だった能ですが

古いものを学んで新しいものを大切にする場合も、芸の本流をそれてはいけない

現代語訳 風姿花伝

言葉は品のないものではなく、姿は幽玄、趣が深く計り知れないようなものが本道をいく達人

現代語訳 風姿花伝

他の芸能に心をうつしてはならないけれど、歌道だけは芸に美を与えるのでしっかり身に着けるべき

現代語訳 風姿花伝

これを大事なことだとあげた上で
好色・ばくち、大酒
を父、観阿弥の掟と戒め

稽古は強く、けれど慢心を持つな

と戒めていて芸に対する姿勢、ストイックですね

能を演じる人の魅力として
『花』という言葉が出てくるのが有名ですが
今だとオーラがあるとかカリスマ性、
という言葉が近いかもしれませんが
年齢別にどう稽古を積めばいいかなども書かれていて
能の指導書でもあるわけですが
面白いなと思ったのは、演じる
何かがとりついた様子を表す時
ついた様子ではなく、ついたものそのものを演じる
とりついたのが女の人の霊ならそちらの方を演じる
といったことが書かれていて

見かけではなく『根本』『正体』

演じる、表面ではない、
その根本をどう演じるか、のようです

そんな芸術、能の本ですが
当時の人は舞台人として生き残るのに必死で
その為にはどういう演目を演じたらよいか
そういったことも書かれていて能の立ち合い勝負
違う流派の人が同じ舞台で競い合うことで
その『手立て』について書かれたところがあって

まず、曲数、演目を多く持つことと書かれ
相手とはかけ離れた趣の曲を
相手とは違う芸風で演じるべきだと書かれていて
それから、それを心のままに演じる為に自作能の方が良く
自分で作った台本、舞台、作品なら
思いのままに演じる事が出来るけれど
他の作者の人の物はそうはいかないからだそうで
そのためには歌道、和歌の世界でしょうが
和歌の心得がある方がよく
そういう人なら能が書けるそうです
相手と違うものを演じるのは
仮に相手が良くできていたとしても
つまり、同じようなものなら真っ向勝負になるけれど
違うものなら価値基準や評価が違うものなので
いたずらには負けない、ということのようです

できる演目、引き出しを増やし
同じ土俵に立たず、自分の自由に演じられる
違うものを違うやり方で勝負する

かけ離れたものを違う芸風

ただかけ離れただけでなく違う芸風で
さらにひねりまで加える周到さ、念の押しようですが
競争相手にならなそうな物や所で勝負
そこを取る、というのは確かにありで

相手と書きましたが訳本には『敵』と書かれていて
アートの話だか勝負の話だか分かりませんが
今なら大きな番組やイベント
インターネットで成功すれば一躍有名
といったことと同じように、世阿弥の時代
名声を得る為に立ち合いはみんな真剣勝負だったようです

能の立ち合いの手立て
相手とかけ離れた演目を
相手とかけ離れた芸風で演じるべき

ライバルとの差をつける『差別化』
ということなんでしょうが

差をつけ他の追随を許さない

人がとらない所で差別化なんて
そこに同じはなく芸能に限らず現代のビジネス書に
通じるような面もあって面白いですね

能の世阿弥、能の芸術理論書の風姿花伝

今に残る人と本ですが
世阿弥、室町将軍の足利義満の時代には
目をかけられ庇護を受けていたそうですが
将軍が変わると流れが変わり
恩恵もあまり受けられなくなったそうです
そういった逆風の中で風姿花伝も書かれたようで

不遇の中で

人生、いい時も悪い時もありますが
思い通りにならない時の方が
人は何かをじっと深く考えるのかもしれないですね
  

#仕事の心がけ

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