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美の来歴㊻ 横顔の傭兵隊長の陰謀                                                                                 柴崎信三         

「メディチ家兄弟暗殺計画」の隠れた仕掛け人


 15世紀末葉、フィレンツェにルネサンス美術の花々が咲き誇った。それは陰影を深めてたそがれてゆく、ある文明の残照であったのかもしれない。
 猖獗しょうけつするペストが街を包んで津波の後のように人口が減り、教会の権威が揺らぐなかで、フィレンツェは未曾有の危機をようやく潜り抜けた。
 金融や交易などを通して遠くオリエントにまで影響力を広げたメディチ家の実質的な創業者、コシモ・デ・メディチの遺産を引き継いだ20歳の孫、ロレンツォは政治や外交の手腕に加えて学識と文化的な情操に優れ、ボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなど、後世に大きな名を遺すの芸術家を支援した。
 薬種商から金融業に事業を広げて黄金時代を築いた一族の歴史のなかで、最後の輝きというべき時代を生きたこの当主を、同時代の政治学者のマキアヴェリは「運命から、また神から、最大限に愛された男」と呼んでいる(『フィレンツェ史』)。

〈いのち短し、恋せよ乙女
紅きくちびる、あせぬまに
熱き血潮の、冷めぬまに
明日の月日は、ないものを〉

 黒澤明の映画『生きる』のなかで、志村喬が演じた小官吏がブランコの上で口ずさむこの〈ゴンドラの歌〉は、ロレンツォが残した『バッカスの歌』がもとになっている。日本に紹介された元の詩を歌人の吉井勇が翻案した。美しい青春への讃歌であると同時に、そこにはロレンツォが生きた時代の底に流れる、ある種のニヒリズムの気配がある。束の間の輝かしい時間は瞬く間に去ってゆくという、無常の人生と歴史への偽りのないまなざしである。
フィレンツェが疫病で都市機能の大半を失う混乱に陥り、ようやく回復へ歩み始めてからすで久しい。明日をも知れない儚い感覚が若い僭主の心に育まれていたとしても、いささかの不思議はない。

◆フィレンツェ サンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂(ドォーモ)と街並み 


 1478年4月26日、日曜日の正午前。いまもフィレンツェの象徴であるドゥオーモ、すなわちサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は爛漫の春を迎えていた。
 大聖堂の丸天井の下は復活祭のミサに集まった人々で華やいでいる。
初めて訪れたリアーリオ枢機卿を迎えて荘厳ミサを催すというので、ロレンツォは弟のジュリアーノとともに聖歌隊を挟んで席に着いた。
 「神の子羊、世の罪を取り去りたもう主よ」
 聖歌隊の「アニュエス・ディ」の歌声がひときわ高まったとき、参列者のなかからフード付きのマント姿の二人の男が立ち上がって、兄弟に近づいていった。
 凶行の下手人はメディチ家と対立する銀行家、パッツィ家のフランチェスコ・パッツィとベルナルド・バンディーニである。
 隠し持った短剣で脇腹を切り付けられ、さらに鈍器で頭をたたかれたジュリアーノはそのまま床に倒れ込んだ。参列者から悲鳴があがった。大聖堂のあちこちに陰謀に加わったかたわれの司祭や書記官らがいたが、兄のロレンツォは祭壇の裏の聖具室に逃げ込んでどうにか難を逃れた。ジュリアーノは落命した。
 「パッツィ家の陰謀」と今日呼ばれる事件である。
 
 メディチ家の若い当主兄弟を襲ったテロ事件に、ただちに政府は非常事態を知らせる鐘をヴェッキオ宮殿や広場に打ち鳴らし、軍隊が召集された。犯人のフランシスコ・パッツィは犯行後、パッツィ家の宮殿に舞い戻ったところを、フィレンツェ市民軍に捕らえられた。パッツィ家の一派に対するメディチ家の凄絶な報復劇がはじまった。
 陰謀に加担したピサのサルヴィアーティ大司教はとらえられて懺悔の時間を与えられたが、パッツィともどもその場で首つりの刑に処された。パッツィ家が仕組んだ惨劇の「囮役」となったリアーリオは教皇シクストゥス4世の甥で、最年少の枢機卿であったが、阿鼻叫喚の大聖堂の参列者の中に逃げ込んでとらえられ、宮殿の牢獄へ送られた。
 生き残ったロレンツォは宮殿に戻って、集まった群衆に無事を伝えた。逃亡犯の捜索とともに、手早く着手したのは、事件を記録することである。
まず彫刻家のアンドレーア・ヴェロッキオに依頼して、犠牲となった弟ジュリアーニの等身大の胸像を作らせた。のちにこれはフィレンツェの各地の教会に飾られた。ロレンツォが支援した画家のレオナルド・ダ・ヴィンチは、事件の下手人でコンスタンティノープルに逃亡していたベルナルド・バンディーニが捕らえられて戻されると、フィレンツェで公開された絞首刑の場面の生々しいスケッチに残している。
 「パッツィ家の陰謀」に対してフィレンツェの民衆が抱いた憤りは当時の画家たちの格好の画題であった。ルネサンスの華と呼ぶべき優雅な『プリマヴェーラ』(春)を描いたボッティチェッリも、その傍らでフランチェスコの処刑の情景を描いている。
 
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 「花の都」のフィレンツェの大聖堂でミサのさなか、屋台骨を支えるメディチ家の当主兄弟がテロにあって死傷するという、青天の霹靂のような事件である。イタリアの都市国家のなかでもひときわの繁栄を誇っていたこの都市の〈顔〉が、なぜ狙われたのか。
 そのころローマの教皇シクストゥス4世は、フィレンツェに近いイーモラを買収した。さらに教皇庁の金融部門をそれまで任せていたメディチ家から同じフィレンツェのライバル、パッツィ家に移管した。それが対立を一気に深めた。

 「パッツィ家の陰謀」の背景を浮かび上がらせる一点の名画がウフィツィ美術館にある。ピエロ・デッラ・フランチェスカの『フェデリーコの肖像』である。
 深紅の帽子と衣服で身を固めた屈強そうな像主を、横顔で描いた肖像画である。ウルビーノ公、フェデリーコ・デ・モンテフェルトロはそのころ都市国家の傭兵隊長として私兵を動かし、ミラノ、フィレンツェ、ヴェネツィア、さらにローマの教皇領でも武勲をあげた。

◆「ウルビーノ公夫妻二連肖像画」より「フェデリーコの肖像」
 ピエロ・デッラ・フランチェスカ 
15世紀後半、板・テンペラ、フィレンツェ ウフィツィ美術館蔵
 


 フェレンツェにとっても「上得意」の傭兵隊長だったはずである。
 左側を向いた横顔が生涯を通した彼の肖像となった理由は、1450年に28歳のフェデリーコが馬上槍の試合に出場して敵手の槍を右目に受け、失明したためである。それ以来、このフランチェスカが描いた左顔の横顔の肖像が彼の刻印となった。
 フェデリーコは、果断な傭兵隊長という顔にくわえて豊かな教養の持ち主で、のちに小国ウルビーノ公国の君主になると図書館や建築など文化支援メセナにも貢献した。
 歴史家のヤーコブ・ブルクハルトは、フェデリーコの横顔をこう記した。

〈小国の君主として彼は、国外で得た報酬を国内で消費し、自国にはできるだけ少なく課税するという政策を実施した。彼が自分のために建てた宮殿は華美を極めたものではなかったが、そこに彼はその最大の宝、かの有名な蔵書を集めた。公の国では誰もが彼から利益もしくは収入を得、また一人として物乞いをする者もいなかった〉(『イタリア・ルネサンスの文化』新井靖一訳)

 のちにウルビーノ公として理想的な君主となるこの横顔の傭兵隊長が、実はメディチ家のロレンツォとジュリアーノ兄弟の殺害を狙った「パッツィ家の陰謀」の影の演出者であったという、衝撃的な事実が公にされたのは、ごく最近のことである。
 「陰謀」にかかわった当事者の一人の末裔にあたる歴史学者が、ウルビーノの古文書館にあったフェデリーコの手紙を発掘し、そこに記されていた暗号文を読み解いた。
 陰謀が実行される2カ月ほど前の1478年2月14日、フェデリーコはウルビーノのドゥカーレ宮殿の奥にある書斎で反ロレンツォ派の領主、ジュスティーニと面談して計画の概要を聞く。そのうえでローマにいる公使にあてた書簡を口述し、暗号文にして送った。もちろん、それが教皇シクストゥス4世へ伝わるのを意図した手紙である。

〈計画がもし成功して我々の意図および目的どおりに進むと、例の友人たち[パッツィ家]が現在同盟している例の権力[フィレンツェと包括的同盟で結ばれているミラノとヴェネツィア]を信頼できなくなり、それ[フィレンツェ]は教皇聖下および王の支配下に入る必要がある〉(マルチェロ・シモネッタ『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』熊井ひろ美訳)

 慎重な言い回しで、フェデリーコは教皇庁へ陰謀の後の根回しを求めているのである。
 
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 都市間の覇権抗争が高まったこのころ、戦争に備えて傭兵という形で「安全」を買うのがルネサンスの都市国家の常態となった。常備軍を抱えるよりも財政的にはるかに合理的だったからである。それゆえ、依頼に応えて「戦争」を請け負う傭兵隊長のフェデリーコが、都市間の利害のはざまでメディチ家の兄弟暗殺という裏切りに加担するのは、傭兵の論理からすれば当時格別異数のことではなかったに違いない。
 ウルビーノ公国の傭兵隊長フェデリーコはそれまで、暗殺の陰謀の標的であったロレンツォが統治するフィレンツェとはおおむね友好的な関係を維持してきた。しかし、フィレンツェが教皇庁の金融部門を独占するなど、周辺との摩擦を広げるに及んで、ロレンツォの強大な支配力は各地の都市国家の反発を呼ぶようになった。
 陰謀へ加担していたことをうかがわせるフェデリーコの書簡がある。宛先は陰謀に加わったミラノ公スフォルツァ家の書記官、チッコである。

〈あの事件がいかにおぞましいものであろうとも、そこまでの危険を冒す羽目に他人を追いやるような無礼のすざましさという観点から考えるべきで、パッツィ家の連中はそのような羽目に追いやられたのだ。彼らは死や一族の滅亡を、考えてもいなければ恐れてもいない〉(マルチェロ・シモネッタ 前掲書)

 事件後、ロレンツォがとったパッツィ家の暗殺者とその同調者への報復は熾烈を極めた。逮捕者は100人に及び、犯行に加わった者は処刑された。それがパッツィ家と深い絆を持つ教皇シクストゥス4世の激しい怒りを呼んだのはいうまでもない。教皇庁はフィレンツェを破門し、フェデリーコが傭兵部隊を送っていたナポリ王国と同盟して、ロレンツォに宣戦布告した。この「パッツィ戦争」でロレンツィオは孤立し、窮地に立たされた。
 ロレンツォは自らナポリに赴き、影響力を持つナポリ王フェルディナンド1世と会って和平への手がかりを探った。ここで仲介役となったのが「パッツィ家の陰謀」の加担者でもあったウルビーノの傭兵隊長、フェデリーコである。ロレンツォはこうして、教皇庁を巻き込んだイタリアの分裂抗争からどうにか逃れた。フィレンツェはようやく永らえたのである。

〈フィレンツェ人はロレンツォ・デ・メディチが死ぬ1492年までは、最大の幸福の中で過ごした。なぜなら、ロレンツォは彼自身の思慮と彼自身の権威によって、イタリア内の戦いを芽のうち摘み取ることに成功したからである〉(斎藤寛海訳)

 マキアヴェッリは『フィレンツェ史』にそう記している。
 1492年に60歳で逝くロレンツォは境涯、若い日に自身を見舞った「パッツィ家の陰謀」にフェデリーコがかかわっていたことを、どこまで認識していたのか。謎である。
 
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 『プリマヴェーラ』(春)や『ヴィーナスの誕生』などでルネサンスを代表する画家となるサンドロ・ボッティチェッリは、フィレンツェの大聖堂で起きたメディチ兄弟殺傷事件から3か月余りたった1478年の7月、パッツィ家側の犯人と共犯者全員の絵をヴェッキオ宮殿の壁に描き、報酬としてフィレンツェの政庁から50フロリンを受け取った。さらに、処刑されて窓から吊るされた犯人らのスケッチを等身大のフレスコ画にして公開した。メディチ家の手厚い保護の下に生きてきた画家として、それは当然の仕事であった。
 これに対し教皇シクストゥス4世は、陰謀に加わった聖職者のピサ大司教、フランチェスコ・サルヴィアーティを描いた処刑図を「異端的」として、宮殿の壁から撤去することを命じている。
 
 1481年に教皇がようやくフィレンツェへの赦罪を発表すると、ほどなく教皇庁は建築の途上にあったヴァチカンのシスティ-ナ礼拝堂の内部を飾る壁画の制作者に、同じフィレンツェの二人の画家とともにボッチィチェッリを指名して依頼する。2年にわたってフィレンツェを破門してきた教皇がメディチ家に向けた〈和解〉へのサインであった。
 半年以上にわたってボッティチェッリはローマに滞在し、礼拝堂の壁を飾る16枚のフレスコ画のうち3枚を描いた。モーセとキリストの生涯が主題だったが、画家はここでも教皇シクストゥス4世の巨大な権力に対する都市国家フィレンツェの意地を、ささやかに画面の上に残している。『コラの懲罰』では、神聖な権威に抵抗する者への警告が主題とされたが、ボッティチェッリは背景の停泊する船に小さくフィレンツェの旗を描き込んだ。このため教皇シクストゥス4世は画家に対し、画料の支払いを拒んだという。 

◆ボッティチェッリ「プリマヴェーラ」(春) 1477ー78年 
テンペラ・板 フィレンツェ・ウフィッツィ美術館蔵

 ボッティチェッリの生涯の代表作『プリマヴェーラ』(春)は1477年から1478年にかけて、ある婚礼への記念に描かれたと伝えられている。
 咲き誇る花の下に集った、爛漫の季節をたたえるような8人の男女の優美な群像は、新しい学芸と生活の様式が広がるルネサンス盛期の華やぎを伝える。一見何ひとつ政治的な寓意などを読みとれないこの絵にも、都市国家フィレンツェが置かれた傾くルネサンスの時代が反映されているという。

〈《春》では不滅の秘蔵っ子である妊娠中のフローラは、フロレンティア(フィレンツェ)とフィオレッタの両方の寓意なのだ。彼女はフィレンツェの街であり、希望と未来を予言としてはらんでいる。しかも亡きジュリアーノの最後の愛人、つまりジューリオ・デ・メディチの母親(フィオレッタ)を表していて、バッツィ家が子供の父親を殺したのだということを忘れない〉(マルチェロ・シモネッタ 前掲書)

  ロレンツォ・メディチはこんな言葉を残した。
 
 「君主が行なうことは大衆もすぐに行う
  彼らの目は常に君主に注がれているのだから」
 
 〈パッツィ家の陰謀〉で暗殺された弟のジュリアーノ・デ・メディチの愛人、フィオレッタ・ゴリーニには、事件の数日前に産んだ遺児ジューリオがいた。ロレンツォの甥にあたるこの少年はメディチ家の養子として育ち、枢機卿を経て教皇クレメンス7世となった。
 かつてシクストゥス4世が造ったシスティーナ礼拝堂の祭壇画の制作に、教皇クレメンス7世はフィレンツェの若い彫刻家、ミケランジェロを起用し、そこに『最後の審判』が描かれた。それまであったペルジーノの『聖母被昇天』には時の教皇シクストゥス4世の姿が描き込まれていたことから、この祭壇画の更新もメディチ家による「美の復讐」だったと伝えられる。
         


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