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美の来歴㊵『虞美人草』と酒井抱一の屏風              柴崎信三

漱石は〈藤尾〉に何を語らせたのか

 冒頭に示した図版は、日本画家の荒井経による「酒井抱一作《虞美人草図屏風》(推定試作)」と題された作品である。夏目漱石の『虞美人草』で男たちを翻弄する美貌のヒロインの藤尾が驕慢と虚栄のはてに死に、その枕頭に立てられた幻の銀屏風。2013年にこれを試作した画家は「雛罌粟が空間を埋め尽くすように群生しているのか、わずかな花を儚く咲かせているのかによって、藤尾のイメージは大きく変わる。小説を読み直し、傲慢だが悪女というより未成熟な女性という藤尾を想定して後者を選択した」と述べている。
 漱石は何故、ここで虞美人草を選んだのか。その場面はこう描かれる。

〈逆に立てたのは二枚折の銀屏ぎんびょうである。一面にへ返る月の色の方六尺のなかに、会釈もなく緑青ろくしょうを使って柔婉なる茎を乱るるばかりに描いた。不規則にぎざぎざを畳むのこぎり葉を描いた。緑青の尽きる茎の頭には、薄いはなびらてのひら程の大さに描た。茎を弾けば、ひらひらと落つるばかりに軽くえがいた。吉野紙を縮まして幾重の襞を、絞りに畳み込んだ様に描いた。色は赤に描いた。紫に描いた。凡てが銀の中から生える。銀の中に咲く。落つるも銀の中と思はせる程に描いた。―花は虞美人草である。落款は抱一ほういつである〉

 『虞美人草』は鳴り物入りで新聞連載が始まった。
 というのも、この小説は漱石が東京帝国大学講師の身分を捨てて、東京朝日新聞に専属する「小説記者」となった1910(明治43)年、初めて専業作家として筆を執った作品だったからである。「東京朝日」だけでなく「大阪朝日」にも原稿は掲載されるから、読者へのサービスで冒頭は登場する二人の男が京都を訪れ、比叡山に登る場面で始まる。
 明治末年の三人の知識青年たちを翻弄する驕慢な美貌のヒロイン〈藤尾〉が、虚栄と打算のあげくにたどる運命に作家の思想を凝縮させた、漱石にとってまことに冒険的な長編小説が、かつてない煌びやかな文体ですすんでゆくはずなのである。
 艶やかな綺語をつらねた勧善懲悪の物語が、この人気作家の新しい境地を切り開くという期待はしかし、連載がすすむにつれていささか陰りをおびた。物語が動き出さずに、過剰な言葉の流離ともいうべき文体が、主題をすり抜けて独り歩きする。文明を批判する登場者の会話と風景や場面の描写がとめどなく続いて、しばしばその行く先が見失われる。

〈紅を弥生に包む昼たけなわなるに、春をぬきんずる紫の濃き一点を、天地あめつちの眠れるなかに、鮮やかに滴らしたる如き女である。夢の世を夢よりあでやかに眺めしむる黒髪を、乱るゝなと畳めるびんの上には、玉虫貝を冴々さえざえと菫に刻んで、細き金脚にはつしと打ち込んでゐる。静かなる昼の、遠き世に心を奪ひ去らんとするを、黒きひとみのさと動けば、見る人は、あなやと我に帰る‥‥〉

 女は読んでいた『プルターク英雄伝』を膝において顔を挙げると、傍らの小野に向って問いかける。「この女は羅馬ローマへ行くつもりなんでしょうか」。
シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』に描かれたクレオパトラという美しい女の運命に自らを重ねるように、藤尾は小野に謎をかけて微笑んでいる。 

ジャン・レオン・ジェローム《クレオパトラとカエサル》(1866年)

 孤児でニ十七歳の文学士の小野清三と哲学を学ぶ甲野欽吾、それに二十八才で外交官を目指す宗近一という3人の青年をめぐって、資産家の甲野の腹違いの妹である美貌の藤尾が母親と組んで恋の策謀を仕組んだあげく、裏切られて憎悪と嫉妬のなかで頓死してしまう、という物語である。
 恩師の娘の小夜子に慕われながら藤尾の美貌に惹かれて引き裂かれた小野を、甲野家の入り婿に迎えようと考えた藤尾の母娘は、当時男女の逢瀬の場所として知られた大森での密会を画策する。しかし、直前に宗近から説得された小野が道義に目覚めてこの約束を反故にしたことから、藤尾は裏切りに対する屈辱と怒りに激情を爆発させる。
 小野が小夜子を伴って甲野の自宅を訪れ、結婚を伝えると女の憤怒は頂点に達した。それまで「男選び」の証のように持ち続けていた父の形見の金時計をあてつけるように傍らの宗近に渡すと、彼はそれをそのまま暖炉に投げ捨てて壊してしまう。砕け散った金時計を呆然と眺めていた藤尾は、その場に卒倒してそのまま息を引き取る、という顛末である。
 こうして筋書きをたどってみれば、これは同時代の尾崎紅葉の『金色夜叉』を彷彿とさせる勧善懲悪の通俗小説とも読める。物語の通俗性はもちろん、「東京朝日新聞」の小説記者として漱石が初めて取り組む連載小説であるから、メディアを通して広く江湖の読者のまなざしを意識したものであったからである。書き出しを甲野と宗近の京都への旅の場面にしたのも、僚紙「大阪朝日」に同時掲載されることを念頭に置いた関西の読者への〈奉仕サービス〉である。これを当て込んで、三越呉服店が「虞美人草模様」の浴衣を売り出して評判をとったという挿話もあるから、この小説は今日のメディアミックスの先駆けでもあった。

〈美しき女の二十を越えて夫なく、空しく一二三を数えて、二十四の今日まで嫁がぬは不思議である。春院徒に更けて、花影おばしまたけなわなるを、遅日早く尽きんとする風情と見て、琴を抱いて恨み顔なるは、嫁ぎ後れたる世の常の女の習いなるに、塵尾ほっすに払う折々の空音に、琵琶らしき響を琴柱に聴いて、本来ならぬ音色を興あり気に楽しむはいよいよ不思議である〉

 悲劇のヒロインとして登場させたこの女を、漱石が目くるめくような狂言綺語を散りばめて描いたのは、そうした小説作法上の機略の一つであったに違いない。それは天性の美貌で男たちを手玉に取る藤尾という女が、高慢と虚飾のはてに滅びてゆく姿を憐れむというよりも、むしろその死を荘厳してゆくような効果をこの小説にもたらしている。
 ここではさきに藤尾自身によって紹介されたクレオパトラをはじめ、漱石が親しんできた古今東西の小説や絵画のなかのヒロインのおもかげが投影されている。
 シーザー暗殺後のローマ帝国を舞台にしたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』では、ポンペイの反乱の知らせを受けた執政官アントニーが放蕩生活から目覚めてクレオパトラをエジプトに残し、ローマへ帰還する。しかし、対立する執政官オクテイヴァイスとの反目が日増しに高じて、エジプトのクレオパトラのもとに戻ったアントニーが狂乱するなかで味方の国王や将官は次々と寝返ってゆく。
 オクテイヴァイスと決戦の日、アンントニーの愛をためそうとクレオパトラが侍女にもたせた遺言に逆上したアントニーは、その場で心臓に剣を突き立てて自裁する。
 その挙句、美しい女の驕慢に翻弄されたアントニーの自死を知ると、勝利者オクテイヴィアスの捕囚となったクレオパトラはローマへの凱旋への同行を断って、その後を追う-。
 藤尾のモデルに準えられるもう一人の女性は、漱石が『薤露行かいろこう』で描いているアーサー王伝説を題材にしたジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの『シャロットの女』である。

◆ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス《シャロットの女》
1894年、英リーズ市立美術館


 詩人テニスンが描くところのシャロットの女は高い塔の中でひとり暮らし、タペストリを織り続けている。彼女は窓の外の現実と触れ合うことことができず、鏡を通してしか世界を見ることができない。しかし、あるとき鏡のなかに円卓の騎士、ランスロットの凛々しい姿を認めて、激しくその心を揺さぶられる。自らの運命に背いて鏡を割り、現実の騎士の姿を追い求めたとき、この薄幸の美女に何が起こるのか。

 〈ぴちりと音がして皓々たる鏡は忽ち真二つに割れる。割れたる面は再びちぴちと氷を砕くが如く粉微塵になって室の中に飛ぶ。七巻八巻織りかけたる布帛はふつふつと切れて風なきに鉄片とともに舞い上がる。紅の糸、緑の糸、黄の糸、紫の糸はほつれ、千切れ、解け、もつれて土蜘蛛の張る網の如くにシャロットの女の顔に、手に、袖に、長き髪毛にまつはる〉(『薤露行』)

 〈ぴちり〉という、鏡が割れる音の描写が美しい。
 ラファエル前派の画家が描く『シャロットの女』は、妖艶で謎めいている。19世紀末の欧州の浪漫的な思潮を映した〈ファム・ファタル〉、つまり男を惑わせる魔性の女の造形として、漱石が英国留学中にこの作品をはじめとするラファエル前派の耽美的な作品に影響を受けてきたことは、改めてとりあげるまでもない。
 『虞美人草』で描いた藤尾と通底するヒロインは、その連載の翌年にやはり新聞連載した『三四郎』に登場する美祢子であろう。九州から上京した帝大生の三四郎がほのかな思い寄せるこの女性は、山の手の暖炉がある屋敷でヴァイオリンを弾いている。逢瀬の途中で女が口にした〈迷える羊ストレイシープ〉という意味ありげな言葉で二人の定めのない関係に終止符が打たれ、にわかに美祢子は他の男と結婚してしまう。『新約聖書』のマタイ伝に記された神の愛のたとえを引いて、三四郎を翻弄するこの女性もまた、〈魔性の女〉の一類型かもしれない。
 藤尾という女性のイメージに直接重ねられているのは、イプセンの『ヘッダ・カーブレル』で気位の高さから周囲の人々を破滅に追い込み、夫の愛を失って自殺に追い込まれる女主人公である。漱石は評論の『文藝の哲学的基礎』のなかで、男勝りの才知と美貌を持つがゆえに夫や他人を苦しめたり、馬鹿にしたり欺いたりするこの女主人公を「徹頭徹尾不愉快な女」とこきおろしている。
 『虞美人草』の書き進めながら、そこで漱石は藤尾というこの女主人公についても、同じようなむき出しの嫌悪を隠さない。連載中に友人のドイツ文学者、小宮豊隆にあてた書簡ではこのように述べている。

〈『虞美人草』は毎日かいている。藤尾という女にそんな同情を持ってはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が欠乏した女である。あいつをしまいに殺すのが一篇の主意である。うまく殺せなければ助けてやる。しかし助かればなお藤尾なるものは駄目な人間になる‥‥〉(1907年7月19日付)

 しかし、漱石がこの悲劇のヒロインを単純に嫌悪して否定するために小説的な死を結末に置いたというのでは、もちろんないはずである。藤尾の死の床に、漱石は酒井抱一の筆になる二双の銀屏風を設え、それをさかさまにして立てた。それは、銀箔の画面を背景にして深紅の芥子の花を散りばめた抱一の屏風、という設定である。
 もとより、抱一の作品にこのような屏風は存在しないから、これは漱石の創作である。
 牛込の大名主の家に生まれながら、漱石は少年期に養子に出されて苦節を噛みしめたが、孤独な日々を慰めたのは身の回りにあった書画骨董で、とりわけ酒井抱一の作品は深く愛着したものであった。最後の長編小説の『門』で主人公の宗助が手にする父の遺産として、抱一の「月に秋草」の図屏風が登場することでもそれは明らかだろう。

◆酒井抱一《夏秋草図屏風》(部分)(1821-22年)重文(東京国立博物館)

〈納戸から取り出して貰って、明るい所で眺めると、慥かに見覚えのある二枚折であった。下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸月を銀で出して、其横の空いた所へ、野路や空月の中なる女郎花、其一きいつと題してある。(略)父は正月になると、屹度此屏風を薄暗い蔵の中から出して、玄関の仕切りに立てて、其前へ紫檀の角な名刺入を置いて、年賀を受けたものである〉

 それならば何故、『虞美人草』で死んだ藤尾の枕辺に立てられる抱一の屏風に、はかなげなこれらの秋の花々とは全く違う、深紅の雛罌粟が選ばれたのだろうか。
 花の名の由来となっている〈虞美人〉とは春秋時代の中国の楚の武将、項羽の愛妾のことである。垓下で劉邦の軍に包囲されて項羽の敗色が極まったとき、足手まといになるまいと自ら命を絶った。その時虞美人がながした血から咲き出した深紅のひなげしの花に、虞美人草の名前がつけられたのだという。

京劇《覇王別姫》の虞美人

 漱石が藤尾という〈運命の女〉に重ねたクレオパトラは、アントニーとオクテイヴィアスという、戦争を介した二人の男の対立のはざまで死を選ぶ。〈虞美人〉もまた、項羽と劉邦というもともと友人同士だった二人の武将のあいだで運命を自ら選ぶ女である。
 打算と計略の果ての〈男選び〉に失敗して死んだ藤尾に手向けるのが、銀地に鮮やかな紅色の雛罌粟の花々を散らした抱一の図屏風という趣向には、文明の「虚栄の毒」を仰いでたおれた藤尾という女に対して、漱石が胸底に温めたそこはかとない同情が、その容赦のない嫌悪の筆致の行間から浮かび上がるのである。

〈純白と、深紅と濃き紫のかたまりが逝く春の宵の灯影に、幾重の花瓣を皺苦茶に畳んで、乱れながらに、鉅を欺く粗き葉の尽くる頭に、重きに過ぎる朶々の冠を擡ぐる風情は、艶とは云へ、一種、妖冶な感じがある〉

 漱石は『虞美人草』の連載にあたり、予告で虞美人草という花をこう描いた。それはもちろん、ヒロインの藤尾という女についての漱石の偽りのない素描である。
 藤尾の死で物語は唐突に終わる。
 宗近は外交官試験に合格してロンドンに赴任し、残された甲野は宗近の妹の糸子と結ばれる。「道義の観念が極度に衰えて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起こる」と漱石は結んだ。
 漱石は世紀末の文明がもたらす〈毒〉にあてられて死んだ〈藤尾〉という美貌の女の悲劇を、抱一の屏風に描かれたの真紅の雛罌粟に託した。実はこの美しい〈毒〉の誘惑に、漱石自身が惹かれつつも深く畏れたのではなかったか―。
標題図版 荒井経 酒井抱一作《虞美人草図屏風》(推定試作) 2013年



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