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「地域」の大事さを身に染めてー『百姓は越境する』への寄稿ー

設立から30年を迎える農業者ネットワーク「アジア農民交流センター(AFEC)」という団体の事務局を10数年お手伝いしてきました。

その会報誌「百姓は越境する」の編集長(松尾康範さん)から「上垣くんのAFECとの出会いを記事にしてみてよ」と依頼され、大学時代からサラリーマン、フリー記者、映像制作、NPO設立という20年ほどを振り返ってみました。一部を加筆して転載します。

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本文に出てくる菅野芳秀さんとは、山形県長井市で平飼い(放し飼い)養鶏を営む農家で、冒頭の「寄り合い」は、その菅野さんが代表を務める「アジア農民交流センター」が年に一回開く会の場面です。

その年の会場は小田原市。将来そこに住むことになるとはまったく予想してませんでした。

【タイトル「地域」の大事さを身に染めて】

脱サラからAFECの会報誌作成の手伝い

高度成長期のサラリーマンと主婦の子供として都会で育てられた私は、農村で生きるみなさんとの会話のネタは、ほとんど持ち合わせていなかった。

2008年のことだったか、小田原市(神奈川県)で開催された「寄り合い」は、農家のみなさんとの会話についていけず、まるで異国に来た旅行客のようだった。その場にいた会員が楽しそうに飲み交わしていて、「この人たちの輪に入りたいな」と、ぼんやり思っていた。

その頃、3年間勤めた地方のメーカー営業を退職するタイミングだった。大学時代にジャーナリストの高野孟(たかの・はじめ)さんと出会い、その友人だった農家の菅野芳秀さんの話を聞いたところから、農業に対する関心が高まっていた頃だった。

勤めた会社を辞める理由は、「農業をするから」だった。実は、自分が何をしたいのかわからなかったが、会社勤めの暮らしに違和感があったことだけは確かだった。

AFECの事務局長であり、久里浜(横須賀市)にある居酒屋「百年の杜」の店主であった松尾康範さんがカウンター越しに「会報の編集を手伝ってくれないか」と声をかけてくれた。

僕にとっては、初めての仕事の依頼で嬉しかった。

会報誌の差出人を(団体の拠点でなく)自宅の住所で発送してしまったり、書き手の原稿の一部を編集作業で削除してしまったり、失礼なことを繰り返して松尾さんに叱られた。失敗しながら自分の未熟さ確認できる、いい機会を与えてもらった。

捨てられる過疎山村

ある日、その百年の杜で、ジャーナリストの大野和興さんと話していて、「挙家離村(きょかりそん)」という言葉を教えてもらった。

私の祖父母は、東京オリンピックが開催された1964年に、和歌山の山村を一家総出で下りていた。家を挙げて村を離れるー。まさにそれだった。

そして、わが家には先代の山があった。「あれがお前の山や」と教え込まれていた。

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(先代から伝わる山。数十年ぶりに訪れた父は「ほとんど覚えがない」。2012年) 

AFECと出会い、プラプラしていた時に、その山を訪れた。先代が丁寧に育てていた山だった。AFECのみなさんが実践しているような「小さな農業」を、ここで始めて暮らせないものか。自宅に戻ってすぐ調べてみた。

しかし、山で仕事を始めるなんて、到底無理な話だった。インターネットで見ると、「林業は大規模化が進んでいる」「数千万円の高性能林業機械が必要だ」と、思い描いていた規模の林業がそこにはなかった。

さらにもう一つ問題があった。先代の山のある地域は、平成の大合併で吸収された形になった山村で、今はバスでも電車でも行くこともできず、自家用車かタクシーでしか行けない場所だった。

町に通えない。最低限のインフラがない。東京は栄えているのに、小さな村は放ったらかし。都市中心の論理があるのだなと、残酷な政策があるのだなと身をもって感じたのだった。

漁村で出会った「自伐型林業」

結局は大学時代に世話になった高野さんのもとで、インターネットメディアの記者として取材をするようになった。2009年に民主党が政権交代をした時代で、国会に通って映像インタビューをして、鮮度の高い情報を仕入れてすぐに発信する、新入社員以下のバイト代だったが充実した毎日だった。

AFECでは、パレスチナやメコン川を下る旅に行かせてもらい、お金をすべて国内外の農村取材に使っていた。

(世界訪問の取材はすべて「国際有機農業映画祭」に出品した。映像は2014年のロシア・ウラジオストクの「ダーチャ」取材)

米価下落や農協つぶしのニュースが出るたびに、山下さんや菅野さん、大野さんに取材して、勉強しながら一次産業の記事を書いて楽しんでいた。そしてTPPの問題が噴出し、AFECのメンバーからも「TPPに反対する人々の運動」の事務局としての仕事を与えてもらい、情報発信と会議運営を担うようになった。

2011年に東日本大震災を機に、高野さんのもとで動いていたネットメディアの大手スポンサーが下り、取材チームはほぼ解散した。またプラプラの始まりだった。

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(2010年。ラオスからカンボジアへメコン川を下る旅。真ん中左が筆者)

そんな時、山下惣一さんが出版記念パーティーに誘ってくれた。横にいたのが生活クラブの雑誌「生活と自治」の当時の編集長だった。「TPPと農業や食の記事を書いてみな」と声をかけられ、そこから農村取材をさせてもらうようになった。

ライターとしての第一歩だった。

過疎地や農業の企画を立てると、すべて行かせてくれた。行きたいところに旅をして、移動費も原稿料ももらえる幸せな仕事だった。 

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(2014年には小田原の「あしがら農の会」を取材していた。写真/越智貴雄)

そして、自分が諦めかけていた林業の可能性に気づくチャンスが訪れた。それは、三陸沿岸部にある岩手県大槌町の吉里吉里(きりきり)という地域への取材たった。

養殖の仕掛けをすべて流されてしまった漁民が途方に暮れていると、後ろに山があることに気づいた。大きな投資はできない。そこで行われていたのが、「自伐(じばつ)型林業」というものだった。

自分で木を切る、山から木を運び出す、出荷する、山に道までつける、すべて自前でやる自立・自営の林業だった。数千万円の高性能林業機械はいらない。家族程度の小規模グループが管理できる形だった。

いったんは諦めた、小さな林業の可能性がそこにはあった。

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(自伐型林業を初めて取材したルポ。写真/田嶋雅巳)

小さな林業の復権運動

長々と書いてきた。

その出会いから、林業の担い手を育てる「自伐型林業推進協会」なるNPO法人を立ち上げ、これまで7年間で2,500人ほどの実践者を生み出してきた。林業といえば、過去に約50万人いた林業者が50年の月日を経て、約4万5千人にまで減少した。92%が消えてしまった絶滅危惧種だ。

そんな中で、まったくの素人から山に入る人たちを作っているので、担い手不足に頭を抱える自治体から相談も多い。全国の地域組織も40ほど設立されて、土砂崩れを予防する林業手法だとドキュメンタリー映画も作られ、林業界のちょっとしたムーブメントになっている。

(監修したドキュメンタリー映画「壊れゆく森から、持続する森へ」(制作 PARC))

国が進める大きな林業の流れの中で忘れ去られ、補助対象からも、統計からも外されてきた「小さな林業」の復権運動だと思って活動している。

そして昨年、前号(AFECが発行する会報誌)にも書いたように神奈川県小田原市の古民家に住むようになり、周辺の山の相談を受け、ここでも実践者を増やす林業研修をし始めることになった。

AFECとの出会いから、みなさんが実践している小さな農業の世界を見て、自分が諦めていた山の価値を高める活動につなげられるようになった。

本当に感謝しています。(『百姓は越境する』 vol.40より転載)

【関連書籍】
記事中の「生活と自治」のルポが収録された書籍が共著で発刊されています。もしよかったら手にとってみてください。

(目次より/上垣が担当した記事)
◉ 「復活の森づくり」百年先への恩送り(岩手県大槌町/吉里吉里国)
◉浪江で生きた“証し”を残したい(山形県長井市/鈴木酒造店長井蔵
◉目指すは「食」の域内循環(神奈川県小田原市/あしがら農の会
◉農ある風景を次世代に(熊本県南阿蘇村/南阿蘇の農と自然を守る人びと
◉唯一のガソリンスタンドを守り、在宅福祉も推進(長野県泰阜村/地域を守り在宅福祉を支える人びと)
◉260年続く「堰さらい」 都市住民をひきつける「遊び仕事」(福島県喜多方市/本木・早稲谷 堰と里山を守る会

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