「熊野古道ウォーク〜筏師の道〜」紀伊国で生きた人々の生活に触れる
下北山村の「紀伊半島はたらく・くらすプロジェクト」のイベントとして、2019年11月に「熊野古道ウォーク〜筏師の道〜」に参加しました。ガイドの小谷雅美さんと共に、メンバー7名で登山道へ行き、そこで感じたことを綴った体験記です。
※5年前の体験記ですが下書き放出します。
※目次、キャプション追加しました(2024.6.12)。
下北山村とはどんな場所か?
奈良県吉野郡下北山村は、昔、紀伊国牟婁郡の北山郷と呼ばれる地域でした。木国(きのくに)が紀伊国(きいのくに)になったとも言われているこの地域は、今も豊富な森林を持つ山深い場所です。かつてここには500を超える人が「筏師(いかだし)」という職業に携わっていました。
筏師は林業の中でも、木を山から川におろして筏状に組み、その筏に乗り川を下って木を運ぶ役割を持つ人々です。そして中継地点まで筏を運ぶと、そのまま山へ登り自宅へ帰って行ったのです。
それほど道が整備されていない時代は、山を尾根から尾根へ渡って行く方が早く移動できました。生活のための仕事へ行く際や小学校に通う時、医者に通う時、別の地域へ嫁ぐ時。使っていたのは、今でいう登山でしか利用しないような山道でした。
いざ、登山道へ
小谷さんによれば、山道は、昔の人々の生きる知恵によって崩れにくい場所が選ばれていて、簡単には崩れないようになっているため、歩く人が絶えてしまった現在でも辛うじて残っているとのこと。もちろん、歩く人がいなくなれば草木などで見えなくなってしまいます。そのような、昔の生活道路である山道を探る活動もされているとのことでした。
集合場所で軽く説明を受けたのち、向かったのは桑原という地域です。登山道は、様々な集落に向かう道がいくつかあり、その内の一つから登り始め、「不動峠」の頂上「法華供養塔」がある場所へ向かい、最後は拠点であるBIYORIへ戻るという5時間弱の道のりです。
いくつかの車で移動した先は、国道沿いにある登山口です。ハイキングコースのような道をイメージしていましたが、全く「道」という感じではなく、山に向かって少し窪んでいる斜面、これが入口です。
季節は秋で落葉が多いため、少し滑りやすくなっている上、数日前には雨も降っていたので湿っており、空気も湿気を含んでいます。ゆっくりと登って行くと、辺りは濃厚な木と土の匂いに包まれました。普段登山には縁がない生活をしているので、体全体のバランスを取りながら、急な斜面や木の根がむき出しの道を慎重に進みます。
豊かな紀伊半島の自然の姿
時折、苔が固まっている場所で足を止めて、小休止を兼ねて苔を観察しました。小谷さんはマイルーぺを持っており、その場で苔を覗いてみると、水を吸って鮮やかな若緑色のモコモコキラキラしたものが見えます。まるで森林を上から覗いているような、初めて覗いた苔は緑色の万華鏡のようでした。苔類とシダ類は、いまだに学術的にも判別が難しいらしく、また日本の中でも紀伊半島は苔シダ類が豊富な地域とのことでした。
斜面をつづら折りに登って行くと、左右の木の幹が太い道が出てきます。このような場所は、山を管理している人が自分の管理地の境や道の境の木を切らずに、目印として育てていると教えていただきました。
初めは、単なる斜面の窪みに思えた道は、だんだんとそこに生きている人々のたくさんの目印に沿って伸びていることに気が付きます。木々の脇の地面に刺さった四角柱の石には土地の所有者の印が刻まれていたり、石やコンクリートのブロックで補強されている場所は崩れやすくなっていたり、そこに行き来する人に分かるよう記号が散りばめられているのです。
「登山道は、昔の人々が生活で使っていた生活道でした。現代のようなコンクリートで補強された道を車で行き来するまでは、荷物を担いで、大人も子供も普通に使っていた道です」と小谷さん。地域の高齢者の中には、小さい頃に習い事や歯医者に向かうために歩いて行ったという話を聞くこともあったそうです。今ではもう、山の上の集落には人も住んでおらず、途絶えかけている道も多いようですが、この山道は当時の生活を知る貴重な手がかりでもあるのです。
「不動峠」に到着、そこに残る人々の生活
しばらく登って行くと、山道がなだらかになり、道の脇に現代風の茶碗や瓶が落ちている場所に出ました。「ここが不動峠です」の声で見渡すと、ぽっかり開けた平地に出ました。
そこは、木に囲まれてはいたものの、数件の家は余裕で建てられそうな平地です。目の前には、今回のチェックポイントである「法華供養塔」の地蔵堂と呼ばれるお堂が、斜めに傾いで今にも崩れそうに建っています。
「ここは、昔から休憩場所や中継点として機能していて、茶屋などもあったそうです。ここに来れば、帰るまであと少しだと分かる、そういう場所でした」。その話の通り、私たちもお茶や甘いものを摂りながら休憩します。筏師も山道を歩きながら、峠まで来て一休みしたことでしょう。
後ろに向かって斜めに倒れかかっている地蔵堂は左右に石碑があり、向かって左には「記念碑」と彫られています。裏面は発起人の名前と「大正九年九月建立」と読めました。およそ100年前の石碑です。地蔵堂は100年ほど前に一度修復したそうなので、その頃の記念碑かもしれません。
右側はやはり後ろに斜めになっていて裏は見えません。初めは読めなかった文字は、うっすら差した光の加減で上部に梵字と、読めない部分もありましたが「玉賓○金禅○門」と彫られています。一番下部には蓮の花を模った彫り物も見えます。左右に寛文十三、八月十三日とも彫られていました。本当に寛文13年であれば1673年の江戸時代の碑になります。
ここは、大和と熊野を結ぶ街道であり、生活に使われなくなった今でも地域の人たちが度々訪れては、お供えをしたり修復したりをしているようです。今は地域の保存会の方々が歴史の継承のために、地蔵堂の修復を目指しているとのことです。寂れたお堂を見ると、修復された地蔵堂にも来てみたいと感じます。
山を感じながら人里へ戻る
休憩後、また山道を歩きます。行きより危険な箇所が所々あり、山側に張られたロープを伝いながら辛うじて足場があるような道も進みます。場所により植わっている木が杉などの針葉樹からブナなどの広葉樹になったり、巨大な岩盤や土質が違っていたりと山の変化も楽しめました。時折、鳥以外の動物の鳴き声がこだまして、たまに見る人間を警戒しているようでした。
下っているのか分からなかった道は、徐々に下り坂になり、膝や腰の疲労も感じて不安になる頃、最後の川を渡りました。ここに掛かる橋は鉄製でしたが、すでに腐食で脆くなっている部分もあり、フワフワする足場は最後の難関でしたが、無事全員渡りきりました。少し登った先は、懐かしく感じるコンクリートの国道です。その道を終点BIYORIまで歩く道のりは、ようやく人の世界に戻って来たと実感しました。
「筏師の道」を歩き終えて
普段の都会の生活では意識しませんが、私たちは本当に自然に囲まれて、自然を縫って生活していると感じました。山に入ればそこは、人間は言わば「居させてもらっている」生き物です。筏師も地域の人々も重い荷物を担ぎながら、少し気を緩ませれば滑り落ちてしまうような場所を、毎日のように歩いていました。時折、動物の鳴き声が聞こえて不安に思うこともあったでしょうし、雨や雪で道が悪い場合もあったでしょう。
自然と共に生きてきた人々と筏師の息づかいを垣間見ることは、今に続く地域の生活にも繋がっているのだということを学んだ体験でした。
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