先取りしない、ということ
昨日はいつも伺っている施設の、わらべうたボランティアの日でした! いっぱい遊んできました!
子どもたちはとても素直で、いつも想像以上の反応を見せてくれて、私は嬉しくなります☺️
遊んでいた時、遅れて輪に入ってきた子がいました。
遅れてきた子がいた場合、やりがちな事ですが、
「今はこういう遊びをしてるよ…」と近くにいる大人がささっと説明してあげる……
……これって、一見、親切に見えますが、はたしてマストな手助けでしょうか🤔?
(子どもが説明しようとしたのであれば、ほほえましい事です。しかし、大人が声をかけることは、子ども同士の声かけとは違った、思わぬ強さで、遊びの場に影響してしまうものです。)
遊びに遅れて入る時には、それなりの心積もりが必要です。『今なにをやってるんだろう? とりあえず隣をよく観察してみよう』とか、その場を見ながら思考力・判断力を育てる絶好の機会です。
あるいは、すぐには遊びに参加せず『一巡だけ流れを見てから入ろう』そんな選択もあると思います。いろんな選択肢が考えられますよね! 一瞬の間に、いろんな知恵を働かせてみることを、だんだんと覚えていけたら良いのです。
そんなふうに、子どもが自分で自分を試せる場面を、大人が〝親切のつもり〟で奪ってしまうのはもったいない。
このことを私達はよく『先取りしちゃいけない』という言い方で表現します。
(もちろん、これは、遅れて来た子は無視していればいいという事ではありません。全ての子の様子をそれとなく把握しておくことが望ましく、適切な配慮が必要な場合もあります。この記事で書きたいのは、育ちのチャンスを見逃さずにおいて、邪魔はしない、という話です。)
また、遊び参加の手助けだけでなく、他の場面でも、大人は〝良かれと思って〟の行動で子どもから機会を奪っていることがあります。
子どもにじっくり観察させる前に「見てごらん◯◯がいるよ」と教えてしまったり、「あそこに◯◯がある」なんて自分の発見を口にしてしまったりします。
……子どもの目線で世界を見ることは大切ですが、大人が子どもに成り代わって発言するのは、〝自分で発見する楽しみ〟を奪ってしまうことに他なりません。
『子ども本人の気づき・発見・成長の機会を、大人が先取りしないこと』
これは、遊びを大人がリードする際の、鉄則であると思います。
それには、大人が、
①子どもの成長段階を知ること
②大人自身の不安を乗り越えて、信じて待つこと
この二つが重要ではないかと考えます。
とかく大人は、この日本社会においては、同調や適応を求められて不安になっていますから、そんな社会の事情(大人のメンタル事情)を、つい子どもの世界にも持ち込んでしまうのかもしれません。
「優しく親切にしないと、悪い大人だと思われてしまうのではないか? 」
そんな無自覚の不安が大人たちのなかに透けて見えるような気がします。(あくまで私の見立てではありますが、大人の対応を見ていると、よく感じます。)
先取りしてしまうことは、真の優しさではありません。
むしろ、堂々と、不親切を貫かなければならない時が、大人にはあります。
〝出来そうだと思ったら入っておいでね〟
〝遊びだから、やりたかったらやればいいよ、見ててもいいんだよ〟
親子が参加する遊びの場合は、こういう声かけを、私はよくします。これは子どもを安心させたいのはもちろんの事、大人にも安心して見守ってもらいたい、そういう意図があって言葉にしています。
遊びがうまくいかない時こそチャンス
遊びの動きを成立させようと躍起にならなくても、不成立の時こそ、「どうしたらいいかな?」を子どもたち自身に考えてもらうチャンスです。
大人はつい、評価の目で遊びをジャッジして、『上手にできた』が喜びなのだと勘違いしてしまっています。
そして、子どもたちをたくさん参加させたかどうかが、大人としての〝自分の評価〟になるのだと思いこみ、評価される焦りが無自覚の行動にでてしまいがちです。
本来の遊びは、『できない』ことも喜びであり、そこから自分でつかみ取ることで、主体の成長につながります。評価をつけるものではないのです。遊びが学校の勉強と違うのはその点にあります。
遊びに参加せずじっと見ている子がいたとしても、それは、心の中でたくさんの知恵を巡らせている過程なのかもしれません。
その子の体の内側で何が起こっているか、今は育ちのどの段階にいるのか? そういう観点をもって、子どもとじっくり接したいものです。
遊びで子どもの育ちにアプローチしていく大人、という存在は、『ただ遊ぶだけの人間』とも言えますが、そこで発揮されてほしいのは、正しい知識に基づいた気づきの観点と、冷静であたたかい心です。
いま、大人には、大人自身を律する能力が求められるのだと思います。
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