『孟子』万章下158ー孟子と万章の対話(15)諸侯は追いはぎなのか

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*前回の孟子と万章の対話はつづきます。

万章は言った。

「今の諸侯は、民から取り立てをおこっています。
まるで追い剥ぎのようです。
ですが、もし礼儀にしたがい、あるべき交際の作法をつくしてくれば、君子でも、その贈り物を受け取るものだ、と言われました。
ですが、ぜひとも質問をおゆるしいただきたいのですが…、
どういうことなのでしょう。」

孟子は言った。

「キミは…、
では、王者が出現したとしよう。
今いる諸侯をそこに並べて、すぐに処刑すると思うのかね。
王者であるならば、まずは諸侯を教育して、その諸侯が態度をあらためなければ、処罰をくだすものではないのかな。

そこにモノがあるとして、だれかの持ち物ではないからと、それを取って行くものがいたとする。
それをすぐに盗人だ、と言うのは、似たような種類のものを、とにかくなんでも当てはめて、義を極端につらぬこうというものだ。

孔子が魯に出仕したときのことだ。
魯の人々の間では、狩猟で互いに量を競い合い、狩った禽獣を奪いあい、それを祭りにささげる猟較(りょうかく)という慣習があった。孔子も、この猟較を行わざるをえなかった。
猟較ですらやむをえないのだから、諸侯からなにかを賜って、それを受け取るくらいは、まあ、よいのではないかな。」

万章は言った。

「そうしますと、孔子が出仕したのは、道(みち)を実践するためではなかったのですか。」

孟子は言った

「道を実践するためだよ。」

万章は言った。

「道を実践しようとして、なぜ猟較のようなものにしたがったのですか。」

孟子は言った。

「孔子は、まず、ただしい帳簿をつけて、祭器を正確に管理した。
そして、四方の遠方から捧げられた食べ物を、帳簿にしるされた正式な祭器には、供えないようにした。」

万章は言った。

「それほどまでに、遠回しなやり方でなければ、道を実践できないのであれば、なぜ魯を去らなかったのでしょうか。」

孟子は言った。

「孔子は、祭器を正しく管理することで、慣習そのものを正していくための兆しを作られたのだ。ただ、ものごとの兆しを打ち立てることはできたが、結局、魯で道が行われることはなかった。
それからようやく、孔子は魯を去ったのだ。
このように孔子は、三年をこえて、同じ地にとどまったことはない。

孔子には、三つの仕え方があった。
まず〈見行可(けんこうか)の仕〉というものがある。
そして、〈際可(さいか)の仕〉というものがある。
さらに、〈公養(こうよう)の仕〉というものがあった。
魯の季桓子(きかんし)に仕えた際には、見行可の仕であった。
そして、衛の霊公(れいこう)には、際可の仕で対応された。
また、衛の孝公(こうこう)には公養の仕でのぞまれている。」

*魯の季桓子は、魯の国政を掌握していたので、孔子は、彼に仕えれば、国政で道を実践できると期待していました。〈見行可の仕〉とは、自らの志を実践しようとして仕えることです。

衛の霊公は、衛を訪れた孔子に、礼によって意見を求め、孔子は霊公に答えました。〈際可の仕〉とは、礼に応えて仕えることです。

衛の孝公は、孔子を賢者として迎えたので、孔子は、衛に滞在して孝公に応えたとされています。〈公養の仕〉とは、国君が賢者をもてなし、それに応えて仕えることです。

*以上、『孟子』万章下158ー孟子と万章の対話(15)諸侯は追いはぎなのか

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