『孟子』万章上147ー孟子と万章の対話(10) 伊尹の仕官

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*今回も弟子の万章との対話です。

万章は質問して言った。

「人々のあいだでこのように言われています。

〈伊尹(いいん)は、まず料理人として殷の湯王(とうおう)に近づいた。〉

こんなことがあったのでしょうか。」

孟子は言った。

「いや、それはないよ。
伊尹は、有莘(ゆうしん)の地において荒野を耕し、尭や舜の道を楽しんでいた。
その政治が義にもとり、道をはずれていれば、俸禄として天下を与えたとしても、伊尹は見向きもしなかっただろう。それに、馬車の馬千匹をあたえても、見むきもしなかったろうね。
伊尹は、義にもとり、道を外れたモノは、一本の草ですら人に与えず、一本の草ですら人から受け取らなかったのだ。

さて、湯王は、人を使いにやり、贈り物を持参して、伊尹を招聘した。
すると、伊尹は、遠慮なく言ってのけた。

〈私がどうして、湯王の贈り物ごときで招聘に応じなければならないのか。
私にとっては、田畑の中で暮らし、尭や舜の道を楽しむことに、まさることなどないのですよ。〉

だが、湯王は三度にわたって使者をやって伊尹を招聘した。すると、伊尹は態度を豹変させ、姿勢を改めて言った。

〈私にとっては、田畑の中に身をおき、尭や舜の道を楽しむことよりも…、
むしろ私がその君主を、尭や舜のような君主に押し上げることに、まさることは、ないのではないでしょうか。
それに、私が、天下の民を、尭や舜につかえた民のようにしてやることに、まさることは、ないのではないでしょうか。
私が湯王のもとでその統治を見ている方が、自分自身にとっても、まさることはないのではないでしょうか。

天は、民を生みだすと、まず先んじて知った者によって、後から知った者を覚醒させます。そして、先んじて覚醒した者によって、後から覚醒した者たちを目覚めさせるのです。
私は、天の民の中でも、先んじて覚醒した者、つまり先覚者です。私は、尭と舜の道によって民を目覚めさせようとしているのではないでしょうか。
では、私がこのことを目覚めさせなければ、誰が目覚めさせると言うのでしょうか。〉

*ここまで伊尹の言葉です。

こうして、伊尹は、天下の民、一人一人の男女にいたるまで、尭と舜の恩沢を被らない者がいないか、と思いなやんだ。それは、まるで民が、自分のせいで溝の中につき落とされたかのようであった。
伊尹が天下の重荷を自分で背負う様子はこのようであったのだ。
故に、湯王のもと、伊尹は彼を説得して、夏王朝を討伐し、民を救ったのである。

さて、私は、これまで自分が曲がっていながら、人を正した者がいるなどと聞いたことがない。まして、自分をバカにしながら、天下を正す者がいるだろうか。

聖人の行いは、どれも同じではない。
ある聖人は世間から遠ざかり、ある聖人は世間に近づいて行く。そして、ある聖人は立ち去ってゆき、ある聖人は立ち去らずにふみとどまる。

ただ、どの聖人にも言えることは、自分自身が潔白であることに帰結する、ということだ。
私は、伊尹が、尭や舜の道によって湯王に仕官を求めたという話を聞いたことがある。だが、これまで、伊尹が、料理人として湯王に近づいたという話は、聞いたことがない。
『尚書』の伊訓(いくん)には、湯王の思いについて記されている。

〈天誅、攻めるは牧宮(ぼくきゅう)より始まった。
私は、亳(はく)より始めた。〉」

*牧宮とは、夏(か)の桀王(けつおう)の王宮です。

*以上、『孟子』万章上147ー孟子と万章の対話(10) 伊尹の仕官

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